ロマン・コンドラチェンコ
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ロマン・イシドーロヴィチ・コンドラチェンコ(Роман Исидорович Кондратенко、1857年 - 1904年12月12日)は、日露戦争当時の帝政ロシア軍シベリア第7狙撃兵師団長。旅順攻囲戦における実質的なロシア軍側の司令官。陸軍少将。
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[編集] 生涯
[編集] 経歴
1877年にロシア陸軍工兵大学を卒業、その後砲兵へと進む。この際に近代要塞築城技術・戦術を学びロシア軍随一の要塞築城の権威となる。参謀本部委員を経て僅か30歳と云う年齢でウラル地方軍参謀長となり、ロシア軍内で順調に出世する。
一流の軍人としてのセンスを持ち、部下将兵と苦楽を共にする事を厭わず、自ら進んで陣頭指揮する勇猛さと、戦場での将兵一人一人に気を配り部下の心を掌握する彼に対し、部下将兵は「わが将軍」と呼んで慕い、同僚からの評価・信頼も高かった。
[編集] 旅順要塞に着任
日露戦争開戦前の1901年にロシア極東軍に転任。1903年には旅順要塞防衛の任に当たるシベリア第7狙撃師団長に就任し、旅順要塞に赴任する。しかし前要塞築城責任者が予算を私的に流用したりしていた為旅順要塞の主要部分は未完成であった。その様子を見て落胆した彼は、同僚に宛てて「何処に要塞があるというのだ。旅順には要塞と呼べる施設は何処にも無い」としたためた手紙を書いている。
着任翌日よりいずれ来襲するであろう日本軍から旅順を防衛する為に自ら要塞築城の陣頭指揮に当たる。旅順要塞司令官アナトーリイ・ミハイロヴィチ・ステッセリ中将は、官僚的縄張意識が高く近代要塞に対して知識の無い凡庸な人物であったが、コンドラチェンコの能力を信頼し殆どの要塞防衛作戦計画を一任した御蔭で、要塞築城や防衛計画に関して専門家である彼のセンスを遺憾なく発揮する事が出来、短期間で永久防塁に固められた近代要塞に変貌させる。
[編集] 旅順攻囲戦
1904年、日本第3軍による旅順攻撃が開始された際にも常に前線に立ち部下将兵を鼓舞し続けた。堡塁からの機関銃による十字砲火や手榴弾・高圧電流を流した有刺鉄線を利用して日本軍歩兵の銃剣突撃を防ぎつつ、旅順港内のロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)から艦載砲を陸揚げして各要塞に設置、砲撃力を高めると共に海軍用の機雷を敵兵に向けて投げ落とし、大砲に魚雷を装填して砲撃する等の戦法も工夫し、日本軍に大きな損害を与える事に成功する。 またステッセリから叙勲権代行の権利を受けると功績のあった将兵に自ら勲章を捧げて激励した。部下将兵も彼のこの姿に感動し、必死になって戦った。
[編集] 奮戦・そして戦死
203高地が陥落、日本軍による砲撃によってロシア太平洋艦隊が全滅する。それでも彼は将兵を励まし、闘争心は衰えなかった。また兵士の士気も高かった。12月12日、東鶏冠山(ひがしけいかんざん)北堡塁の将兵を激励する為に視察に訪れる。一人の兵士に勲章を与え激励した後にその場から離れようとしたその時、日本軍から発射された榴弾砲弾が着弾、戦死する。
コンドラチェンコの死は将兵たちに衝撃を与え、「わが将軍は死んだ、旅順はもうお終いだ」と嘆き一気に士気が低下した。ステッセリが旅順開城・降伏を申し出たのは1905年1月1日のことであった。
[編集] 評価
日本・ロシア側からも『日露戦争に於けるロシア軍屈指の名将』と高く評価されている。また戦死した地には日露戦争終戦後その死を惜しんだ日本側によって記念碑が建てられた(現在でも残っている)。戦場では勇猛でありながら普段は寡黙で温厚な性格の持ち主で、他人の意見を良く聞き、指揮系統が混乱した旅順要塞内に於いて調停役を良く勤めた[1]。
一方で批判もある。コンドラチェンコは独断専行の傾向があり、要塞から出撃して野戦を行う様しばしば主張した。コンドラチェンコの師団は7月3日に歪頭山・剣山に対して攻撃をかけ、塹壕にこもる日本軍の前に大きな損害を受けている(この際、ロシア軍の戦法を模倣した日本軍は、機関銃銃座を構築して十字砲火を浴びせ、ロシア軍を撃退している)。もしコンドラチェンコが旅順要塞の総司令官であれば、無謀な出撃によって自滅していた可能性もある[2]。
生涯独身であり、長身で色白の美男子であった為女性からの人気も高かった。ステッセリの夫人は彼を特に気に入り、何度となく誘いを掛けたと云われている。ステッセリは「妻とコンドラチェンコを二人きりにしない様に」と幕僚達に頼んでいたと云う逸話が残っている。
[編集] 脚注
- ↑ 司馬遼太郎 『坂の上の雲』全8巻(文春文庫、1999年)
- ↑ 別宮暖朗 『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦―乃木司令部は無能ではなかった』(2004年) ISBN 4890631690