ルワンダ紛争
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ルワンダ紛争(ルワンダふんそう)とは、アフリカ中央部にあるルワンダにおいて、1990年から1994年にかけ、フツ族の政府軍とツチ族のルワンダ愛国戦線(Rwandan Patriotic Front、RPF)との間で行われた武力衝突のことをいい、ルワンダ内戦ともいう。
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[編集] 概要
ルワンダは第一次世界大戦まではドイツ、第一次世界大戦以降はベルギーの植民地であったが1962年に独立を果たし、少数派民族であるツチ族を中心とした国家が成立した。
独立以後続けてきたツチ族による支配に反抗した多数派民族であるフツ族を中心とする勢力が1973年にクーデターを起こし、逆にフツ族がツチ族を支配することになり、ツチ族はルワンダ愛国戦線(RPF)を組織して、ウガンダを拠点にフツ族のハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させることになる。
1990年10月にはRPFがルワンダ北部に侵攻し、内戦が勃発。
1993年8月にRPFの猛攻と国際世論の高まりにより、アルーシャ協定が結ばれ、和平合意に至ったものの、1994年4月6日にフツ族のジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプレン・ンタリャミラ大統領を乗せた飛行機が何者かに撃墜されたことに端を発して、フツ族によるツチ族の大量虐殺(ジェノサイド)が始まり、一説には約100日間で国民の10人に1人、少なくとも50万人が虐殺されたとされる。
1994年7月にRPFがツチ族保護を名目に全土を完全制圧し、フツ族のパステール・ビジムングを大統領、ポール・カガメを副大統領(現大統領)とする新政権が発足。紛争は終結した。
ジェノサイド事件については、ソマリア内戦への介入で失敗した国連やアメリカがルワンダへの人道的介入を避け、国際的な対処が遅れたことが原因であるとする見方もある。
[編集] 両民族の軋轢
フツ族とツチ族は元々は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、貧富の差(国土の殆どが農作業にはあまり向かない痩せた土地であり、農耕業が主だったフツ族には貧困が蔓延っていた。逆に遊牧業が主な生業であったツチ族は、牛を多数所有するなど比較的豊かであった)がそれぞれの民族を形成するなど両民族の境界は曖昧であった。
しかし、フツ族の土地であったルワンダやザイール(現コンゴ民主共和国)、ブルンジにツチ族が入植し出すと、フツ族とツチ族が侵入者の駆逐といったような小さな戦いを始め、ドイツやベルギーは植民地化後に両民族間の対立を煽り、(イギリスが考案し世界各地で実践していた植民地経営の常套手段を参考・応用し、現地支配層として育成していた)ツチ族は「高貴(白人の血が混じっているというデマを活用)」、対するフツ族は「野蛮」であるという神話を広め始めると、ツチ族とフツ族は大きく対立し始めた。
[編集] 映画化
2004年、ルワンダの高級ホテルのマネージャーだったポール・ルセサバキナの体験を下に、映画「ホテル・ルワンダ」が公開され話題になった。日本での公開は当初、興行的に採算が合わないということで配給会社の買い手がつかなかったが、「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」(現『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会)による活動により配給元が決まり、日本でも公開されることとなった。公開は2006年1月。
[編集] 謎の人口統計
100万人近い人間が虐殺されたはずなのに、ルワンダの人口統計指標は一旦1995年に170万人近く下落した後に、なぜか2000年には200万人近く上昇し、元の上昇ペースに戻されている。このことから全虐殺数に疑問を呈する研究者もいる。