モリス・コーエン
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- ミンスク出身の哲学者はモリス・ラファエル・コーエン(モリス・レイフル・コーエン)を参照
モリス・"二挺拳銃"・コーエン(Morris "Two-Gun" Cohen 1887年 - 1970年)はポーランド生まれのイギリスの冒険家。孫文の用心棒、中国軍の陸軍大将代理として知られた。
モリス・エイブラハム・コーエンは、ポーランドのラザノフで、貧しいユダヤ人の家庭に生まれた。彼の一家はポグロムから逃れるために、彼が生まれて間もなくロンドンのイーストエンドに移った。ただしコーエンの助手チャールズ・ドレイジによる伝記を信ずるなら、コーエンはロンドンに移住したばかりのポーランド系ユダヤ人の家庭に生まれたとのことで、出生の場所に食い違いがある。
彼は、学校に行くよりも劇場に通ったり街を歩いたり市場をぶらついたりするほうが好きだった。1900年には、スリの現行犯で逮捕されてもいる。矯正の目的で彼はユダヤ人不良少年少女のためのヘイズ工業学校に送られた。1905年に出所すると、彼は家族の意向でカナダに送り出された。新大陸の雄大な自然が彼を更生させてくれるのではないかと期待してのことである。
彼は初めのうちサスカチュワンに程近い農場で働いていた。土地を耕し、家畜を世話し、銃の撃ち方とトランプ賭博の味を覚えた。1年間は真面目にやっていたが、やがてカナダの大西部に向けて放浪の旅に出発し、カーニバルの香具師、博徒、詐欺師などの仕事を転々とした後、不動産ブローカーとして成功した。この時期に何度か投獄されてもいる。
彼はまた、出稼ぎでカナダ横断鉄道の工事に従事している中国系移民たちと仲良くなった。サスカトゥーンで中華料理店主が強盗に遭っているところに出くわして不埒者を殴り倒し、道に放り出したことがきっかけだった。この当時、身を張って中国人を助けるような白人はほとんどいなかった。中国人たちは彼を歓迎し、ついには同盟會(孫文を中心とする反満州組織)に入るよう勧誘した。こうして彼は中国人の代弁者となった。
彼は第一次世界大戦中、ヨーロッパのカナダ鉄道警察隊で働いていたが、中国人労働者たちへの取り扱いを巡って上司と争ったことがある。1922年には、鉄道建設事業を巡る欧米の建設会社の不当な要求を撥ね付けるよう孫文に進言するため訪中。そして彼は、自分を用心棒として雇うよう孫文に頼み込んだ。
上海と広東で、彼は孫文の小軍隊を訓練して戦い方を教えた。そして中国の民衆に向かって、自分が孫文の軍隊の副官であり大佐であることを告げた。幸運なことに孫文もその夫人も、また部下の多くも英語に堪能だったので、コーエンがほとんど中国語を話せなかったこと(せいぜい片言の広東語を操る程度だった)は問題にならなかった。
こうして彼は同志たちからMa Kunという中国名で呼ばれるようになった。彼は、頼り甲斐のある用心棒の一人として孫文から信頼を博した。孫文が会議に出、また戦地を視察する際には、影のようにコーエンの姿があった。彼に弾丸という渾名がついた或る戦闘の後から、彼は予備の銃を持ち歩くようになった。西洋人社会から「二挺拳銃コーエン」と呼ばれるようになったのは、この時からである。
1925年に孫文が亡くなった後は、コーエンは孫文の息子の孫科や宋子文といった中国国民党指導者たちのために働いた。また蒋介石とも近付きになった。コーエンは蒋が黄捕軍官学校の司令官だった頃から蒋を知っていた。しかしコーエンが協力関係にあった指導者たちはほとんど蒋と敵対していたので、コーエンと蒋との関わりもまた最小限にとどまった。コーエンは上司たちの信頼を得て武器や砲艦を獲得し、最終的には将軍代理の地位に登りつめた。ただし一度も兵隊を率いたことはなかったけれども。
1937年に日本軍が中国に侵攻した時、コーエンは熱意をもって戦闘に参加した。中国人のために武器をかき集め、英国軍のためには諜報活動さえおこなった。1941年12月に日本軍が攻撃した時は、コーエンは香港におり、孫文夫人の宋慶齢と、その姉の宋靄齢を英国植民地に残る最後の船の一隻に乗せた。
コーエンは前線にとどまったため、12月下旬に香港が陥落すると、日本軍の捕虜となってスタンリー捕虜収容所に収容された。ここで彼は日本軍から暴行を受け、1943年の暮に捕虜交換で解放されるまで苦しみの日々を過ごすこととなる。
解放されると彼は海路カナダへ戻り、モントリオールに居を定めてジューディス・クラークと結婚した。彼女は成功した婦人用ブティックの経営者だった。これ以降も彼は仕事を求めて定期的に中国を訪問していたが、ほとんどの場合、旧い友人たちがホテルのロビーに座ってコーエンの功績を大げさに語り合うのを見た。こうして、コーエンこそが現代中国の生みの親だといった内容のものから、彼と宋慶齢の間に情事があったとか、既に1920年代にカナダで結婚していたというような風変わりなものに至るまで、彼に関する数々の神話や誤伝が生まれた。1949年に共産党が勝利を収めた後、コーエンは台湾と中国本土を自由に行き来できる少数の人間の一人となった。一方で、長期間にわたって家庭を留守にしたため、とうとう1956年にジューディスとの結婚生活は破綻した。
そしてコーエンは英国サルフォードの姉(あるいは妹)の家に落ち着いた。彼は台湾とも中国共産党とも友好関係を保っていたため、ビッカースやロールスロイス、デッカレーダーといった会社で顧問として迎えられた。文化大革命の始まりの時期に、周恩来の賓客として中国を訪れたのが、彼の最後の訪中となった。