マヤグエース号事件
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マヤグエース号事件(まやぐえーすごうじけん Mayaguez incident)は、1975年5月、アメリカの商船がカンボジアによって拿捕された事件。アメリカ大統領ジェラルド・R・フォードにとって最初で、かつ重大な外交危機だった。
[編集] 事件の経過
事件は1975年5月12日、カンボジア領海でクメール・ルージュ政権の軍隊が、米国商船マヤグエース号(SS Mayaguez)を拿捕、尋問のために乗組員を連行したことに始まった。フォード大統領はベトナムからのアメリカ軍の撤退がアメリカの威信を損ねたと考え、事件を決定的に解決しようと決心していたとされる。フォードはさらに、1968年のプエブロ号事件の二の舞を避けたかったようである。
アメリカはクメール・ルージュ政権との外交関係を持っていなかったので、交渉実現の可能性は低かった。フォード大統領は、クメール・ルージュの懲罰と、コ・タン島(ベトナムとの国境に近いカンボジア南東部沿岸から約50マイルの所に位置)に抑留されていると考えられた船と乗組員の救出を軍に命じた。フォードは当該地域へ空母コーラル・シー(USS Coral Sea, CV-43)を派遣し、沖縄からタイのウ・タパオ空軍基地に海兵隊を移動させた。
5月15日、11機の空軍ヘリコプターがウ・タパオ空軍基地を離陸し、護衛駆逐艦ハロルド・E・ホールト(USS Harold E. Holt, DE-1074)からマヤグエース号へ70人の兵士が乗り移った。米英戦争以来初めて、米軍兵士が敵船に乗船した。しかし、マヤグエース号は空だった。
およそ200名の兵士を乗せた8機のヘリコプターがコ・タン島北部地峡の東西両海岸を襲撃したが、最初の数分で4機のヘリコプターが撃墜され、1機だけが損傷を免れて現場を離脱した。4時間後、海上から生き残った13名の兵士が駆逐艦ヘンリー・B・ウィルソン(USS Henry B. Wilson, DDG-7)によって救出されたが、3つの攻撃部隊が島に取り残されたままであり、一番人数の多い部隊でもわずか6人しかいなかった。米軍には知られていなかったが、この地域はベトナムとの係争地域であり、クメール・ルージュはベトナムの侵攻に備えて防備を固めていたのだ。
残ったヘリコプターによる第2波攻撃の準備が始まった時、マヤグエース号の乗組員は島から40マイル離れた所で解放された。海兵隊の攻撃部隊司令官は第2波攻撃を主張したものの、統合参謀本部によって取り消された。
最初の攻撃から14時間後、最後の攻撃部隊がヘリコプターによって収容された。この作戦でアメリカ軍軍人50名が負傷し、51名が戦死した。そのうち3名はトゥール・スレン収容所に尋問記録が残っており、処刑されたと考えられている。作戦初期には、空軍軍人23名がウ・タパオ基地に向かう途中で死亡している。また、作戦領域に展開していたクメール・ルージュの軍人約300名のうち、60名が戦死したと考えられている。
マヤグエース号事件はタイの政治にも間接的な影響を与えた。タイ政府によってウ・タパオ基地の使用を拒否されたにもかかわらず、アメリカ軍は基地を使用したが、結果としてアメリカに対する怒りの声が上がった。タイ政府はアメリカ軍の行為を自国に対する主権の侵害とし、タイの多くの団体がタイからのアメリカ軍撤退を要求した。さらに、アメリカ軍による空軍基地の使用にはタイ軍が絡んでいると見なされ、タイ国民の自国軍に対する信頼も失墜した。