ベーラ4世
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ベーラ4世(1206年-1270年、在位1235年-1270年)は、ハンガリー王国アールパード王朝の国王。エンドレ2世(アンドラーシュ2世)の子。
1235年、父・エンドレ2世の死去によって王位を継いだ。即位後は父王の時代に大きく衰えた王権を回復すべく大貴族層と対立した。当初は国民もベーラ4世を支持していたが、ベーラ4世が遊牧民であるクマン族を味方につけて大貴族層に対抗しようとすると、クマン族に好意を持っていなかった国民はベーラ4世を見捨て、挙句の果ては味方につけたはずのクマン族までもが大貴族層と内通して裏切り、ベーラ4世は貴族との対立に敗れ、さらに国内の混乱と王権の弱体化を助長させてしまったのである。
1241年、バトゥ率いるモンゴル軍がハンガリーに侵攻して来ると、ベーラ4世はハンガリーの総力を挙げてこれを迎え撃ったが、彼我の兵力とその強さの前にモヒ草原の戦いで大敗を喫し、ダルマチア沿岸の孤島に逃亡した。その結果、ハンガリーはモンゴル軍の占領下に置かれることとなり、国内は壊滅してしまったと言われている。
しかし同年、モンゴル帝国の大ハーンであったオゴデイが病死したため、モンゴル軍はハンガリーを放棄して東に退却することとなった。このため、ベーラ4世はハンガリーに帰国し、モンゴル軍によって荒らされた国内の再建に取りかかることとなる。
まず、モンゴル軍の再度の侵攻に備えてハンガリーの各地に城塞を築城した。さらに国内再建を優先して大貴族層と和解した。また、破壊されたブダ市を復興させ、新たな宮殿を築き上げ、今日のブダペストの繁栄における基礎を築き上げた。クマン族とも婚姻関係を結ぶことで和解し、その入植を認めることでハンガリー王国のさらなる繁栄を促進するなど、国内復興政策の多くに成功を収め、『ハンガリー第2の建国者』と呼ばれた。
しかし晩年、小領主の権利を認めて都市の自治を促進させる政策を採ったために大貴族層の反発を招いたうえ、皇太子であったイシュトヴァーン(のちのハンガリー国王・イシュトヴァーン5世)にまで背かれて再び国内が混乱する中での1270年、65歳で死去した。
モンゴル軍によって荒廃したハンガリーを再建したことは、ハンガリーの歴史上では大いに評価されている。
ハンガリー王国アールパード王朝 | ||
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