エンドレ2世
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エンドレ2世(II Endre, 1167年 - 1235年10月21日)は、ハンガリー王国アールパード朝の国王(在位:1205年 - 1235年)。ベーラ3世の子。アンドラーシュ2世(II András)とも呼ばれる。
1196年、父・ベーラ3世の死後、長兄のイムレ1世が後を継いだことを不服として反乱を起こし、その結果、父の時代に最盛期を迎えたハンガリーの国力を大きく衰退させてしまうこととなった。兄との王位継承争いには敗れたが、1204年に兄が死去してその子ラースロー3世が即位すると、翌年にはその王位を奪って即位した。
即位後はロシア方面へ勢力を拡大すべく、何度も遠征を行なったが、全て失敗に終わった。1217年からの第5次十字軍に参加したときは、ヴェネツィア共和国と対立して支配下にあったザラ市を奪われたうえ、彼自身の統率のまずさから軍を敗退させるという無様さであったといわれている。
しかも、このように連年にわたって戦争を行なった結果、ハンガリーの財政は多大な軍費による出費から大きく逼迫することとなり、エンドレ2世は財政再建のために国民は勿論のこと、貴族層に対しても重税を課すことで解決しようとした。しかし貴族層がエンドレ2世の政策に猛反発した結果、1222年にエンドレ2世は貴族の免税特権や武力抵抗権を認可する金印勅書を発布することを余儀なくされ、かえってハンガリー王権の弱体化と貴族層の権力拡大を招く結果となってしまった。
また、エンドレ2世は別の財政再建政策として、ユダヤ教徒の銀行業者を重用するなどしたが、これが原因で1232年にローマ教皇から破門されるという有様であった(以前、兄が教皇の命で異教徒討伐に向かっている最中に対して反乱を起こしていたため、以前から教皇サイドから不信を持たれていた)。
ハンガリーに最盛期をもたらした父ベーラ3世と違って、あまりにも暗愚なエンドレ2世がハンガリー王となったことは、ハンガリーに大きな混乱と衰退を招くこととなったのである。
さらにエンドレ2世の無力さを証明する逸話として、1213年に王妃ゲルトルードをハンガリーの有力貴族の1人であったバーンク・バーンに殺害されたが、エンドレ2世はバーンク・バーンの勢力を恐れて、処罰することができなかったとまで言われている。
[編集] 子女
エンドレ2世は最初の妃、メラーノ公女ゲルトルードとの間に3男2女をもうけた。
- マーリア(1203年 - 1221年) ブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世の妃。
- ベーラ4世(1206年 - 1270年)
- エルジェーベト(1207年 - 1231年) テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の妻。
- 聖エルジェーベト(エリーザベト)として知られる。
第2の妃、ラテン皇帝ピエール・ド・クルトネーの娘ヨランドとの間には1女をもうけた。
第3の妃、エステ家のフェラーラ公アルドブランディーノ1世の娘ベアトリーチェは、エンドレ2世の死後に1男を生んだ。