フリッパーズ・ギター
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フリッパーズ・ギター(The Flipper's Guitar)は1989年から1991年まで活動した日本のバンド。 英語での表記は単に「Flipper's Guitar」とすることも多い。また「パーフリ」という略称で呼ばれることもある。
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[編集] 経歴
前身はロリポップ・ソニックという名前でライブハウスなどで活動。当初はネオGSの枠で捉えられていた。メジャーデビューの際、「フリッパーズ・ギター」と改名。このころは小山田圭吾(当時は「圭悟」)、小沢健二に荒川康伸、井上由紀子、吉田秀作を加えた5人編成。
1989年、小沢健二が作詞を担当した全曲英詞の1stアルバム『three cheers for our side - 海へ行くつもりじゃなかった』でポリスターよりデビュー。その直後に荒川、井上、吉田が脱退、小山田圭吾(リードヴォーカル,ギター担当)と小沢健二(コーラス,リードギター担当)の2人編成となる。1990年、全曲日本語による2ndアルバム『CAMERA TALK』をリリース。 1991年、3rdアルバム『DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER - ヘッド博士の世界塔』をリリースするも、突然の解散表明。共通の知人である渡辺満里奈を取り合った末の喧嘩別れとも囁かれる(このたぐいの醜聞を好む人々が少なくないのも事実だが、あまりに「突然」だった解散にこのような憶測・デマが流れたものとみられる)。また、ライブツアーの直前に解散したため、世間から少なからず批判を受けた。その後二人はそれぞれコーネリアス、小沢健二としてソロ活動を開始した。
フリッパーズ・ギターは、TV番組「イカすバンド天国(通称:イカ天)」に見られるバンドブームの影響下にあった当時の日本に詞、曲、ファッション、メディアとの関係等の点からその潮流に一石を投じ、さらには日本の軽音楽の流れに多大なる影響を与えた存在であると認識されている。この観点から日本の軽音楽の流れにおいて「フリッパーズ・ギター以前か以後か」という区切りがしばしば用いられている事も多く、フリッパーズ・ギターの登場により、多種多様な音楽が大衆に受け入れられるという土壌の形成を促すに至ると同時に、多くの形式上類似したバンドが登場することとなる。因みに、フリッパーズ・ギターは後に(本人たちの意思とは無関係ではあるが)、オリジナル・ラヴやピチカート・ファイヴなどと共に、それまでのJ-POPシーンに見られなかった強い洋楽志向を指す「渋谷系」というくくり方をされるようになった。
[編集] 音楽的傾向
1stアルバムは全曲英語による歌詞という当時としては極めて異例の挑戦的なものだった。2ndアルバムはある程度聴衆に歩み寄り全曲日本語詞となる。1st、2ndアルバムは、アズテック・カメラ、スタイル・カウンシル、ヘアカット100、モノクローム・セットを彷彿とさせる所謂ネオアコ、ギターポップ、フレンチに属する楽曲に仕上がっている。しかし、3rdアルバムは実験色が強く、ビーチ・ボーイズやプライマル・スクリームなど様々な音楽の影響を反映したものとなっており、また当時のイギリスなどに見られたレイヴ・カルチャーの影響も色濃く反映された音に仕上がっている。以上から、単に楽曲上だけがお洒落なバンドと捉えるのはフリッパーズ・ギターの一面しか捉えておらず、尚早と言えよう。
因みに主なアルバムジャケットはアートディレクター・映像ディレクターの信藤三雄氏(CTPP)によるものである。
また、ファッション雑誌「オリーブ」に盛んに広告を出したことでも知られており、彼らのベレー帽やボーダーシャツ、ホワイトジーンズなどの ファッションは当時の若者たちに強い影響を与えた。
現在でもTV番組(例:落下女)やCM(例:日産K12型マーチ)でBGMとして使われることが多い。なお、小泉孝太郎出演の「孝太郎プラス」のオープニングにも曲が使用されている。
[編集] フリッパーズ・ギターにまつわる話
- フリッパーズ・ギターの前々身である「Peewee 60's」結成のきっかけは、当時別のバンドのメンバーだった井上由紀子が小山田をナンパしたところから始まったという。また、1stアルバムの歌詞カードにはそのいきさつが漫画で描かれている。
- ビデオ『The Lost Pictures』には、後に小山田がプロデュースするカヒミ・カリィ(当時は本名の「比企マリ」)が出演している。
- 上記ビデオで小山田は足を引きずっているように見えるが、これは撮影前に事故で怪我をしたためである。また、彼はその入院中にブライアン・バートン=ルイスと知り合っている。
- 解散後に出された『colour me pop』、『on PLEASURE BENT』は、後に小山田が主宰するレコードレーベル「トラットリア(trattoria)」のno.1、2となっている。ただしこの2枚の内容について、メンバーは一切関わっていない。ちなみにこの二作がリリースされた要因としては、突然の解散によるライブツアーの中止で少なからず損失を受けることを危惧したポリスター側が穴埋めとして急遽企画・販売したという説がある。しかし結果的にはフリッバーズ・ギターのレアな音源が出されることになった。
- 解散後も小山田と小沢は仲良くレコードショップへ行っていたという話がある。雑誌にもそれを匂わせる記事があったらしい。このことから、音楽的理由で解散と言う説も濃厚である。
- 解散理由について、小山田はコーネリアスの1stアルバムリリース後のインタビューで、「『僕と小沢ができていて、その仲を渡辺真理奈に引き裂かれたというのが有力な説』ってこの間小沢と話しました」と冗談を言っていた。いずれにしても真相は本人達しか知りえないことなのだろう。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] シングル
- 『Friends Again』(1990年1月25日)
- 『恋とマシンガン』(1990年5月5日)
- 『カメラ! カメラ! カメラ!』(マキシシングル・1990年9月25日)
- 『Love Train』(1990年11月21日)
- 『Groove Tube』(1991年3月20日)
- 『星の彼方へ(Blue Shinin' Quick Star)』(1991年8月25日)
[編集] アルバム
- 『three cheers for our side - 海へ行くつもりじゃなかった』(1989年8月25日)
- 『CAMERA TALK』(1990年6月6日)
- 『DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER - ヘッド博士の世界塔』(1991年7月20日)
※「three cheers for our side」と「CAMERA TALK」は2006年8月25日に紙ジャケ限定版として再販。
[編集] コンピレーションアルバム
- 『fab gear』(1990年12月)
※フリッパーズプロデュースのオムニバスアルバム
[編集] 編集盤
- 『colour me pop』(マイク・オールウェイ監修のベスト&レアトラック集)(1991年12月21日)
- 『on PLEASURE BENT』(ライブ・トラック集)(1992年4月1日)-オリジナル盤は「続カラー・ミー・ポップ - on PLEASURE BENT -」だったが、再発盤から現タイトル。
- 『Singles』(シングル集)(1992年9月26日)
[編集] 映像
VIDEO
- 『The Lost Picutures ~それゆけフリッパーズ!!名画危機一髪~』
- 『Original Clips&Cms ~続・それゆけフリッパーズ!! オリジナルクリップとCM集~』
- 『Testament ~新・それゆけフリッパーズ!!~フリッパーズ・ギターは二度死ぬ~』
DVD
- 『THE LOST PICTURES,ORIGINAL CLIPS & CM'S plus TESTAMENT TFG Television Service』