フランツ・フェルディナント大公
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オーストリア=エステ大公フランツ・フェルディナント・カール・ルートヴィヒ・ヨーゼフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Franz Ferdinand Karl Ludwig Josef von Habsburg-Lothringen, Erzherzog von Österreich-Este, 1863年12月18日 - 1914年6月28日)はオーストリア・ハンガリーの皇帝=国王の継承者、オーストリア=エステ大公。サライェヴォでセルビア人民族主義者に暗殺された。このサライェヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発した。
[編集] 皇位継承者指名と結婚
オーストリア皇帝フランツ1世(在位:1804年 - 1835年)の四男であったカール・ルートヴィヒ大公とナポリ王室出身のマリア・アヌンチアータの長男として1863年オーストリアのグラーツで生まれた。フランツ・フェルディナントはオーストリア皇族であるが、伯父のフランツ・ヨーゼフ1世(在位:1848年 - 1916年)にはルードルフ皇太子がいたため皇位継承の圏外にあった。しかし思いもかけず、1889年1月ルードルフ皇太子が情死したため、にわかに皇位継承候補者となった。フランツ・ヨーゼフ皇帝は弟のカール・ルートヴィヒの三人の息子から後継者を選ぶことにしたが、まずその内の一人フェルディナント・カール 大公は庶民の娘と結婚して除外され、次にオットー大公は漁色が過ぎて性病にかかって没してしまう。よって残ったフランツ・フェルディナントが皇位継承者として認定されるようになった。
オーストリア皇室ではさっそくフランツ・フェルディナントの結婚話を進めるが、大公にはボヘミアの伯爵家出身で宮廷女官のゾフィー・ホテクという愛人があり、結婚したい意向であった。皇室は次期皇位継承者がチェコ人の女官のような身分の低い女性と結婚するのに大反対したが、2人はあくまで意思を変えなかった。このためゾフィー・ホテクが皇族としての特権をすべて放棄し、将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に結婚を承認された。2人の結婚式は1900年7月1日に挙行された。このような複雑な経緯もあって、フランツ・フェルディナントは「皇太子」とはあまり呼ばれず、「皇位継承者」と遠回りな呼ばれ方をされるようになった。
[編集] 暗殺
フランツ・フェルディナント大公はチェコ人と結婚しただけあって、親スラブ的な傾向があり、反面で大のハンガリー嫌いだった。政治的思想も親スラヴ的で、皇帝のボヘミア王戴冠による三重帝国の大連邦国家制を望んでいた。1914年6月ボスニア・ヘルツェゴビナの首府サラエボの軍事演習視察に出かけたのもそんな感情からだった。しかし1878年のベルリン会議以来オーストリアが占領し、1908年には正式に二重帝国領に併合されていたボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア人も住んでおり、大セルビア主義者にとってはオーストリアに侵略された土地だった。ロシア帝国を後ろ盾とする汎スラブ主義に沸くバルカン半島では、オーストリア大公の来訪は絶好の餌食であった。大公夫妻はサライェヴォの町でセルビア民族主義を奉じる秘密組織黒手組の暗殺者ガブリロ・プリンチプによって暗殺される。時に大公51歳、ゾフィー46歳であった。このサライェヴォ事件によりオーストリアがセルビアに宣戦布告、これが第一次世界大戦を引き起こすことになる。