フォード・RS200
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フォード RS200は、世界ラリー選手権(WRC)に参戦するため、グループB規定に則って作られた車である。設計は、ルマンにも出場したSWC用グループCマシントヨタ・TS010を始め、数多くのF1マシンやレーシングカーの設計を手がけたことで著名なトニー・サウスゲート、ボディデザインをフォードの支配下にあるカロッツェリア・ギアによって形作られた、この時期のラリーカーとしては珍しい流線型の美しいフォルムを有している。
当時のグループBカーはみなそのメーカーから発売されている市販車の名前とイメージを踏襲したデザインを持っていたが、フォードRS200はデザインも名称も市販車にはない専用のものであることも珍しい。他に同様の車はランチア・ラリー037くらいであるが、これもデザイン自体はランチア・ベータ・モンテカルロがベースであることを考えると、RS200は市販車と名称やデザインに一切の関連性がない唯一のグループBカーと言ってよい。
[編集] 機構・スタイル
ボディ構造は、シャシーはアルミハニカムモノコックによる高剛性シャシーを持ち、そこから伸びた鋼管サブフレームによってエンジンを支持し、また重心位置を下げるためにエンジンを斜めに傾けて搭載されている。ボディカウルに関しては金属類はほとんど使わず、グラスファイバーによって成型されている。
エンジンは伝統のコスワースBDAをベースにギャレット製ターボで過給した、型式をBDTという水冷式直列4気筒DOHCエンジンで、排気量は1.8リッター。市販車のうち、最もおとなしい仕様では、250馬力を発生した。コスワースチューンの「ホットバージョン」や、競技用に関してはこの限りではない。RS200Eと呼ばれる競技用エヴォリューションモデルの排気量は、他の例に漏れず過給器係数1.4を掛けて3リッター未満となる2.1リッターとなっている。このエンジンはBDT-Eと呼ばれるが、コスワースエンジンのチューンで名高いブライアン・ハート社によって製作された。
サスペンションは前後ともダブルウィッシュボーン式で、ラリー競技中の高いストレスに対処するため、全てのサスペンションがツインダンパー化されている。また、フロント部とリア部ロワアームに関してはアルミモノコックと繋がっているが、リア部のアッパーアームとダンパーは、エンジンを支持する籠状の鋼管サブフレームに剛結されている。
RS200のメカニズム的特長は4WDシステムにあり、動力配分をコントロールするモードが三つ用意されている。前37:後63の比率で駆動力を配分するモード、前後50:50のセンターデフをフルロックするモード、最後にフロントに一切のトルクを供給しない後輪駆動モードがある。これは四輪駆動によるアンダーステアを嫌った、言い換えれば回頭性能や運動性能を重視した舗装路ラリー専用のモードで、他のラリーマシンにはないユニークな制御ロジックを採用している。 また、前後の重量比を50:50とするためにギアボックスを前方に置いている。ちょうどFRトランスアクスル レイアウトが前後逆になった格好であり、このため2本のプロペラシャフトが往復するという特異な構造になっている。
[編集] レース活動
1985年、まずはテストとしてイギリス国内ラリー選手権に投入されることとなり、そこで結果を残したことで手ごたえを掴む。圧倒的なレース展開を自信にして、同年の世界ラリー選手権最終戦のフィールドに殴り込みをかけることを計画していた。 しかし、グループBに参戦するための必須条項である、連続する12ヶ月以内に200台以上の生産をすることを達成できなかったため、RACラリーの出走を見送ることとなり、RS200の活躍に期待していた人々に水を差した。
これが全ての悪循環を招いたのかは知る由もないが、RS200にとってグループBは悲運の連続であった。1986年、伝統の開幕戦モンテカルロラリーにも出走できず、ようやく第2戦スウェディッシュラリーにはどうにか参戦できたものの、今度は熟成不足による信頼性の低さを露呈してしまい、エンジンが悲鳴を上げてしまった。 面目躍如を狙う第3戦ポルトガルラリーでは、コース上にあふれる観客を避けたところコントロールを失い、コースアウトし観客に突っ込み40人以上が関係する死傷事故を引き起こしてしまう。この事故を引き金にフォードワークスは一時撤退、アクロポリスラリーとRACラリーにワークス体制で出場したが芳しくなく、グループBでの選手権は同年で終了したため、RS200が世界ラリー選手権の場で優美に羽ばたくことはできなかった。