ピエトロ・マスカーニ
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ピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni, 1863年12月7日リヴォルノ - 1945年8月2日ローマ)は、19世紀末イタリアのオペラ作曲家、指揮者。
パン屋の両親の元に生まれる。父はピエトロに法律を学ばせたが、彼は音楽に強い関心を持ち、伯父を味方につけて故郷の音楽院で本格的に音楽を学ぶ。20歳にならぬうちに交響曲、オペラ、カンタータなどを作曲し、その才能を認められる。そして後援者の後押しでミラノ音楽院に入り、アミルカレ・ポンキエッリに師事したが、途中で学校を飛び出し、指揮者として活動を始める。その後、チェリニョーラ(Cerignola)の音楽学校の教師となる。
1890年にローマの楽譜出版社ソンツォーニョの一幕歌劇コンクールに応募して当選した代表作「カヴァレリア・ルスティカーナ」によって驚異的な成功を収めるが、不幸にもこれがその後の多くの作品を霞めてしまった。それでも15曲のオペラと1曲のオペレッタ、いくつかの美しい管弦楽曲や声楽曲、歌曲、ピアノ曲を残した。1895年にはペーザロのロッシーニ音楽院院長に就任。
存命中は、オペラで驚くほどの成功をおさめ、同時に指揮者としても非常に成功を収めた。マスカーニの作風は、友人でライバルだったプッチーニとは大変に異なっている。おそらくそのために評論家筋からマスカーニ作品は過小評価されてきたのだろう。
ファシスト政権が誕生すると、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近。このため、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じた。遺体はローマに葬られたが、1951年に故郷のリヴォルノに再埋葬され、それと共に名誉回復された。
彼がいくつか残した自作自演(『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『友人フリッツ』など)は、現在もCDで入手することができるほど評価が高い。
[編集] 主要作品
- ピノッタ Pinotta(作曲1880年、1932年3月23日サンレモ初演)
- グリエルモ・ラトクリフ Guglielmo Ratcliff (作曲1880年代中葉~1890年代初頭、1895年2月16日ミラノ初演) 台本: [1]
- カヴァレリア・ルスティカーナ(田舎騎士道)Cavalleria Rusticana (1890年5月17日ローマ初演) 台本: [2], [3]
- 友人フリッツ L'amico Fritz (1891年10月31日ローマ初演) 台本: [4]
- イリス Iris (1898年11月22日ローマ初演) 台本: [5]
- 仮面 Le Maschere(1901年1月17日ミラノ、トリノ、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ヴェローナ、ローマで同時初演)