ビオコ島
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ビオコ島(ビオコとう)は、アフリカ大陸中西部、ギニア湾の火山島。赤道ギニア領であり、島内最大都市のマラボは同国の首都である。北緯3度45分、東経8度48分に位置する。
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[編集] 歴史
大航海時代に入り、インド航路を探検する途中、1472年にポルトガル人フェルディナンド・ポー (Fernão da Po) によって発見され、フェルディナンド・ポー島と命名された。ポルトガル人はビオコ島に砦を築き、領有した。1778年、ブラジル南部でスペインとの紛争が発生し、ブラジルの権利をスペイン人から譲り受けることと引き換えにアフリカ本土海岸の一部(リオムニ)の権利とビオコ島の領有権をスペインに譲渡した(エルプラド条約)。赤道ギニアの国土がビオコ島を含む五つの島とリオムニに分かれているのはこのためである。
1781年、スペイン人の占領部隊がビオコ島に到着するものの、疫病により全滅状態となる。その後、1883年クラレント修道会が修道士を派遣した。スペインは赤道ギニア一体の支配をクラレント修道会に代理させることにした。この後、ビオコ島は奴隷貿易の中継基地となった。西サハラと並び、スペインがアフリカに有する2つの植民地の一つとして栄える。
1823年から1843年まで、イギリスの賃借地となる。このときイギリス人は奴隷制度廃止の拠点として現在のマラボにあたる位置に町を建設した。1843年再び、スペイン領に戻り、イギリス人が建設した拠点はサンタイザベルと命名される。スペイン人は現地住民を強制的に徴用し、カカオプランテーションを広げた。このため、1898年と1902年には大規模な反乱が発生している。スペイン人は現地住民に対する一切の権利を認めなかった。
第二次世界大戦後、1958年に赤道ギニアはスペインの県となる。このとき現地住民はスペインの市民権を獲得した。1963年にはフェルディナンド・ポー県(ビオコ島)とリオムニ県に分かれた。1966年、将来の独立が決まり、1968年10月12日に独立。赤道ギニア共和国となる。しかし、ビオコ島とリオムニは民族、言語も異なり、距離も離れているため、対立が発生。さらにスペインはカカオプランテーションの権利を留保し、軍も駐留していたため、問題が複雑化、1969年には全スペイン人が撤退し、社会インフラが停止した。ここで国連の支援が入り、スペインの援助が再開する。以降の歴史は、赤道ギニアの歴史の項を参照。なお、1973年から1979年まではマシアス・ヌゲマ・ビヨゴ島(初代大統領であるマシアス・ンゲマに由来)と呼ばれ、その後、ビオコ島となっている。
[編集] 地理
ビオコ島はギニア湾西部、ビアフラ湾との境に浮かぶ島である。南北70 km、東西60 kmで北北東から南南西に延びる。ビオコ島の面積は約2017平方km。サントメ・プリンシペ両島をはさんで南西に690 km離れたアンノボン島(面積約17平方km)と併せた総面積は2034平方kmである。ビオコ島の海岸線は単調であり、167kmにわたる。地理的には東方のカメルーンに近く、わずか56 kmしか離れていない。一方、南東のリオムニへは260 km遠方である。
北部には標高3008 mの成層火山であるマラボ山(サンタ・イサベル山)がそびえ、南部はモカ台地を初めとする高地となっている。南西部には直径5kmのカルデラ地形も見られる。南部の山岳は浸食が早壮年期の段階にあり、断崖と深い渓谷が縦横に走る。このため、交通手段がなく、居住に向かない。
ビオコ島は、アフリカプレート内にあるホットスポットのうちの一つによって形成されたものである。ホットスポットはカメルーン高原から、標高4095 mのカメルーン山をはじめとするカメルーン山脈、ビオコ島、サントメ・プリンシペ、さらに2000 km遠方のイギリス領のセントへレナ島に連なる海底山脈群であるギニア海膨を形成した。ギニア海膨は北東から南西に向かって延びており、これはまさしく年間0.6-1.2cm動くアフリカプレートの移動方向と一致している。
主要都市は、赤道ギニア首都のマラボ、港湾都市のルバ、南部の中心都市リアバである。
[編集] 気候
赤道ギニアは全土がケッペンの気候区分でいう熱帯雨林気候 (Am)であり弱い乾季が存在する。ビオコ島は6月~8月が雨季、12月~2月が乾季となる。これは1月にビオコ島の直上まで赤道集束帯が南下するためである。リオムニは常に赤道収束帯の南に位置するため雨季と乾季はビオコ島とはまったく逆になる。
首都マラボの気温は16度~33度の範囲であるが、モカ台地では21度以上にはならない。降雨パターンは島内でも変動が激しく、マラボの年間降水量は1930 mmだが、最南部のウレカでは1万920 mmにも達する。これはビオコ島にそびえるマラボ山の影響である。同様の気候パターンはカメルーン山やハワイ島でも見られる。
実際には、マラボ山との位置関係だけでなく、標高によっても微小気候が成立している。ビオコ島はほぼ赤道直下にあるため、森林限界は2200 mである。標高700 mに達するまでは熱帯雨林気候なのだが、700 mから1500 mに至る高度では雨量が急速に増加し、最大4000 mmまで増える。
[編集] 産業
ビオコ島の気候、特に降水パターンはカカオの栽培に向いている。植民地時代にはナイジェリア東部から半強制的に連れてこられたイボ族とイビビオ族が栽培に従事していた。これらの住民をニヘリアノスと呼ぶ。第二次世界大戦後はやはりナイジェリア人季節労働者がカカオプランテーションで栽培に携わっていた。ところが、赤道ギニア政府の支給する賃金や労働条件が劣悪であるため、ナイジェリアとの間で関係が悪化、1975年には季節労働者の渡航を制限したため、2000年時点ではプランテーション労働者が不足している。
1992年4月、アクバ油田の原油生産が始まる。1996年からは米国のモービル石油が海底油田ザフィーロ油田からの原油採掘を開始、石油ブームが起きる。
ビオコ島の交通網は整備されている。マラボ港とルバ港はリオムニのバタ港と並ぶ主要港湾である。道路の建設が進んでおり、ビオコ島の高速道路は総延長距離300kmである。1964年にはマラボ空港がジェット機の離着陸が可能になっている。バタ空港やカメルーンのドゥアラ空港との間には赤道ギニア航空の定期便が設定されているほか、スペイン、モロッコ、ナイジェリアなどへの国際便も発着している。
[編集] 民族構成
ビオコ島には赤道ギニアの人口のうち、約1/4が居住する。ビオコ島には先住民族がいない。現在記録にあるのは、13世紀にアフリカ本土から逃れてきたカメルーンに起源を持つバンツー語系民族のブビ人である。ブビ人の口承記録によるとビオコ島は無人島であった。大陸側のリオムニはさらに17世紀からファン人(現在の主力民族)とパムエ人の侵入を受けたが、ビオコ島とは無関係な動きである。2005年現在でもブビ人とファン人の対立は続いており、ビオコ自治運動が分離独立運動を続けている。ビオコ島は初等教育が充実しており、識字率が90%を超えている。いっぽう、リオムニは70%を下回っている。
ビオコ島には、フェルナンディノと呼ばれるクレオールも少数だがおり中産階級を形成している。19世紀にイギリス海軍によって解放された奴隷の子孫である。スペイン人とポルトガル人の子孫も数千人が残っている。クレオールやスペイン人達は少数派だが、植民地時代、長年にわたり政府と商業を支配してきた。