ヒクソン・グレイシー
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画像:Rickson Gracie.jpg |
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基本情報 | |
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本名 | ヒクソン・グレイシー |
あだ名 | 400戦以上無敗の男 |
階級 | 1959年11月21日 |
国籍 | ブラジル |
誕生日 | |
出身地 | ブラジル、リオデジャネイロ |
命日 | |
死地 | |
スタイル | ブラジリアン柔術 |
プロ総合格闘技戦績 | |
総試合数 | |
勝ち | |
KO勝ち | |
一本勝ち | |
敗け | |
引き分け | |
無効試合 |
ヒクソン・グレイシー(Rickson Gracie、1959年11月21日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ出身の、グレイシー柔術家。七段。身長175センチ、体重86キロ。グレイシー柔術の創始者・エリオ・グレイシーの三男で、兄弟の中で最も強いと考えられている。
目次 |
[編集] 人物
自然な生き方を追い求めるその哲学的な姿勢により、魅了される人々は多い。プロ野球選手の清原も助言を求めてヒクソンのもとを訪れたことがある。麻雀で無敗を誇ったことで有名な桜井章一と親交がある。
実弟のホイス・グレイシーが初期のUFCで活躍してたころ、マスコミに口にした「兄ヒクソンは私の十倍強い」という言葉で一気にヒクソンの名前が広く知られるようになった。
自ら黒帯を与えたのは2006年1月現在で20人のみ。そのうち日本人は一人だけ(アクシス柔術アカデミーの代表、渡辺孝真氏)。
長男ホクソン・グレイシー(Rackson Gracie) が2001年にバイク事故で他界してから約一年間主立った活動を控えていたが、自身の写真集の出版と同時に活動を再開、セミナーや独自の大会(ブシドーチャレンジ)を開催するなどしている。しかし総合格闘家としては2000年の船木誠勝戦を最後に試合を行なっていない。
[編集] 主な戦歴
400戦無敗というマスコミの報道はもちろん誇張されている。柔術の試合も含めてそれぐらいの試合やバーリ・トゥードを経験した、ということで本人が佐山聡に述べたところ、キャッチフレーズにちょうどよかったので使われ続け、今日にいたっている。柔術を始めて間もない頃の敗戦、サンボの試合での敗戦も、本人は隠さずに認めている。
ブラジリアン柔術がUFCでその名を世界的に知られるようになる以前は、小規模な大会が不定期に開催されていたにすぎなかったため、実際に彼が観客の前で試合をした数を正確に把握することはできない。また記録に残る公式な試合よりもストリートファイトの経験のほうが圧倒的に多いと考えられる。しかし、450戦と言う割に証拠の残ってる戦跡は、15戦足らずで真相は公言してる数より程遠いと思われる。
- 安生洋二(道場破りに来たところを返り討ち)
- バーリトゥードジャパン '94(1994年7月29日) 優勝
- 一回戦 西良典
- 準決勝 David Levicki
- 決勝 Bud Smith
- PRIDE1 高田延彦(1997年10月11日)
- PRIDE4 高田延彦(1998年10月11日)
- コロシアム2000 船木誠勝(2000年5月26日)
[編集] ヨーガ
ヒクソンはトレーニングの中にヨーガを取り入れている。ただし、ヒクソンのヨーガは本来のヨーガとは多少異なる。
ヨーガの直接の師である、リオデジャネイロ在住のオーランド・カニ氏が教えるエクササイズは、ヨーガとカラリパヤットと太極拳を組み合わせた、呼吸法がベースとなる独特なもの。動物の自然なしなやかさを身に付けることで格闘家の動物的本能を伸ばすことが目的という。このカニ氏のもとでヨーガを学んだブラジルの格闘家は多い。
ヒクソンは彼のもとで1986年から1988年の終わり頃まで練習。カニ氏は、ヒクソンは特殊な例であり今までで最高の弟子とし、非常に高い評価をしている。ヒクソンはそこからさらに彼独自に発展させているため、一般に行われるヨーガと同一とは考えない方がよいようだ。
彼のヨガのエクササイズの場面がよくテレビで放映されたことがあり、今のヨガブームの一翼を担った面も多少あると思われる。
[編集] 批判
ヒクソンに対してよく行われる批判は、「自分より強い人間とは戦わない」というものである。マウント・ポジション、ガード・ポジションなどの総合格闘技の技術は、UFCが開催されだした頃はともかくとして、現在では広く普及しており、当時のようなグレイシー柔術の技術的優位性は失われているので、現在ではヒクソン・グレイシーと同等以上の実力を持つ競技者は珍しくないと推測される。しかし、ヒクソン・グレイシーは総合格闘技の技術が普及し、また改良を加えられて様々に発展を開始した後は、PRIDEなど総合格闘技の最高峰の試合には登場していない。これは、もはや自分が総合格闘技の第一線で勝ち続けることは不可能であるという認識故であるというのである。
また、ヒクソンは(というよりグレイシーは)自分に有利になるように頻繁にルール変更を要求することが多いとされる。実際に、総合格闘技が興行として成立しはじめた頃は肘打ちありの試合が多かったし、現在でも肘打ちありの試合は珍しくなく、実際に本人も肘打ちありのルールで試合に出たことがあるにもかかわらず、「(頭突きと)肘打ちありの試合は流血になることが多く、観戦する人に嫌悪感をあたえるから、禁止にすべきである」と主張してルール変更を要求をし、その要求をごり押したことがある(船木誠勝戦)。加えて彼は自身の持つ高い商品価値を充分に認識しており、確実に勝てる見込みが無いマッチメイクに対しては、巨額のファイトマネー要求やルール変更要求(このルールでなければ試合を行わないという形の)を行って、試合そのものを流すか、確実に勝てる状況を作り上げてから試合に臨むという、高度なマネージメントを展開していた。
数々の幻想をファンに与えてきた、ヒクソンだが陰りが見え始めたのは、桜庭の台頭が拍車をかけた。 弟のホイラー、ホイスが桜庭と試合を行う前に「もし弟が負けるような事があれば私が出て行く」と言いながら、その時 その時で、発言の内容の豹変によりヒクソンの底が見えた感が強い。
総合の関係者の間では極めて評価が低いのも特徴である。
[編集] 出演作品
- 「王者の真実」(原題:CHOKE)
[編集] トリビア
- Jean Jacques Machadoが18歳の頃に,彼に対してヒクソンが個人レッスンをグレイシーウマイタでしばらくの間行っていた時期がある。ヒクソンは午前6時半からの練習を指定していたという。
- 若い頃に、黒澤明監督の映画”七人の侍”を見てかなりはまってしまったらしく出演した侍の姿にいたく感銘したといわれる。ちなみに一緒に見た他の兄弟はヒクソンほど、はまらなかったらしい。("GRACIE WAY"より)
- ヒクソンが2006年6月頃リオに帰ってたとき、非常に珍しいことにパウロ・フィリョと練習を行った。そのときのことをパウロはインタビューの中で、ヒクソンほど技の知識の豊富な人に今まで出会ったことがないと、驚きとともに答えている。(ADCC NEWSより)
- 彼の柔術の試合の90%はチョークで終わらせていたらしい。
- ヒクソンがリオで柔術大会に出ていた80年代の最大のライバルはSergio Penha(Osvaldo Alvesの最高の弟子の一人)だったといわれている。1981年11月29日Carioca Jiu-Jitsu Championship大会(AABB体育館)で二人は対戦した。当時ヒクソン74kg、Penha84kg。はじめパスガードされるなどしポイント12-0でリードされていたが、のちテイクダウンに成功し、マウントからのチョークで逆転勝利を飾った。(ちなみに現在(2006年7月現在)柔術界最強のホジャーグレイシー、の父親であるマウリシオ・ゴメスもこのSergio Penhaを紫帯の頃、破っている。)
[編集] 外部リンク
- [http://en.wikipedia.org/wiki/Rickson_Gracie wikipedia英語版
- ヒクソン・グレイシーの公式サイト
- ブラジリアン柔術家の、樹系列による紹介など
- グレイシー柔術の歴史に関する記事を特集したページ
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