ハギノカムイオー
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1979年4月1日 |
死没 | 生存中 |
父 | テスコボーイ |
母 | イットー |
生産 | 荻伏牧場 |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
馬主 | 日隅広吉、中村和夫 |
調教師 | 伊藤修司(栗東) |
競走成績 | 14戦8勝 |
獲得賞金 | 2億3112万5200円 |
ハギノカムイオーは日本の競走馬で、宝塚記念の優勝馬。史上初めて1億円を超す取引価格が付いた事で有名。1979年4月1日生まれの鹿毛の牡馬。父は名種牡馬テスコボーイ・母は『幻の桜花賞馬』イットーの荻伏牧場生産馬。調教師は伊藤修司、主戦騎手は伊藤清章(現・上野清章)。馬主は日隈広吉と中村和夫。14戦8勝。後に種牡馬となる。
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[編集] 185,000,000円
イットーは、ハギノトップレディを生んだ翌年、テスコボーイが配合された。テスコボーイは日高軽種馬農業協同組合が所有する種牡馬で、組合員は割安で種付けができる代わりに、牡駒はセリ市への上場が義務付けられていた。1979年の春に生まれた鹿毛の仔は牡馬で、牧場長の斎藤隆によって「カムイオー」と命名された。カムイとはアイヌ語で「神」の意味である。テスコボーイは既に、天馬と称された名馬トウショウボーイを筆頭に、二冠馬キタノカチドキ、テスコガビーなど数多の活躍馬を送り出して大人気の種牡馬だった。母のイットーは高松宮杯の優勝馬で、近親に重賞勝ち馬を多く輩出しており華麗なる一族と呼ばれているマイリー系であった。この名種牡馬との間に生まれたカムイオーは、生後まもなくから大きな注目を受けた。
カムイオーがまだ生後4ヶ月のとき、姉のハギノトップレディが函館のデビュー戦で日本レコードで逃げ切った。カムイオーの評価はますます高まり、10月のセリ市には競馬関係者のみならず、一般の新聞記者やテレビ局の取材人が訪れて普段とは異なる活況を呈した。それまで、日本のセリ市では1976年にやはりテスコボーイの仔に5,000万円の値がついたのが市場最高価格だった。カムイオーがセリ会場に姿を現すと、「お台(出品者による設定価格)」が読み上げられた。「8,000万(円)」。従来の市場最高価格を上回る設定に場内からどよめきが漏れた。ハギノトップレディの馬主である日隈広吉の代理人、伊藤修司調教師はすぐに手を上げて「1億(円)」と値をつけた。浦河の牧場主でミルジョージの馬主としても知られる中村和夫との競り合いで価格はすぐに1億5000万円にはねあがり、最終的に1億8500万円で伊藤修司が競り落とした。1億円を超える史上最高価格馬の誕生は、この日のトップニュースになった。
脚元に弱さが見られたため、3歳から活躍してきた馬が多い華麗なる一族としては遅く、1982年(昭和57年)1月、4歳でのデビューとなった。異例なことに、このデビュー戦は関東の競馬場にも中継された(当時はまだオーロラビジョンがなかったので、音声による実況だった)。このデビュー戦を7馬身差で逃げ切って期待に応えると、2戦目の桜草特別も3馬身差で逃げ切り勝ちを収めた。
[編集] サルノキング事件
この頃、ハギノカムイオーは日隈と中村和夫との共同所有名義になっていた。これだけの血統に生まれた馬であるから、引退後に種牡馬として期待できるのは明らかである。馬主の日隈は牧場を持たないので、牧場を所有する中村が引退後のハギノカムイオーの権利をおさえてしまったのである。
ハギノカムイオーは2連勝の後、皐月賞の前哨戦となるスプリングステークスに駒を進めた。このレースには、レコード勝ちを含めて6連勝中、しかし近走は東京4歳ステークスと弥生賞と重賞を2連勝しているサルノキングも出走。サルノキングが1番人気、ハギノカムイオーは2番人気となった。スタートしてまもなく、ハギノカムイオーはいつものように先頭に立った。ところが、サルノキングは何故か、ブービーの馬からさらに20馬身ほど離れた最後方をたった1頭で進む。サルノキングはこれまで先行するレースをしていたので、これは大方の予想に反する展開となった。すると、まだ中盤の第2コーナーからサルノキングは突然スパートをして上がっていき、一気に先行集団に取り付いた。最後の直線に入るとサルノキングは失速し、ハギノカムイオーはそのまま逃げ切った。サルノキングは4着とはいえ、誰の目にも不可解極まるレース振りでの敗戦となった。
これによりカムイオーは皐月賞の出走権を得たが、一方でサルノキングはレース中に骨折していたことが判明し、そのまま引退を余儀なくされた。レース後に伝わったところではサルノキングの鞍上の田原成貴がレース時の判断でサルノキングを控えさせたとされているが、しかし、両馬共に中村和夫が馬主の共同所有名義に入っていたことから、このサルノキングの不可解なレース振りは、高馬であるカムイオーに皐月賞の出走権を確実に取らせるために馬主が指示した、いわば出来レースであったのではないかという憶測を呼んだ。これによってカムイオーについても、ダーティーとも正々堂々と皐月賞に駒を進めているとも思わせがたい、いずれにも言い切れない様な複雑なイメージを多くの競馬ファンが抱く事になってしまう。この一件を『サルノキング事件』あるいは『サルノキングの逆噴射』と言う。
ただし、サルノキングが戦線離脱したクラシック路線においては、カムイオーが現時点で世代最強格の逃げ馬である事はもはや誰の目にも疑いなく、多くの競馬マスコミも皐月賞確実と評価し、押しも押されぬ本命馬となって皐月賞に挑戦することとなった。
[編集] 三冠
3戦3勝で臨んだ皐月賞は一番人気で迎えたが、ゲイルスポートなどとの先行争いが激化し、前半の600メートル通過が皐月賞史上最速の34秒台となった。ハギノカムイオーは後半で失速しアズマハンターの16着と大敗。続くNHK杯でも同じようなレース振りでアスワンの12着に沈んだ。このため東京優駿(日本ダービー)は断念することとなり、秋に備えて放牧に出された。
10月に復帰緒戦の神戸新聞杯を逃げ切ると、京都新聞杯では逃げずに2番手から抜け出して勝ち、2連勝で菊花賞に向かった。菊花賞では本命となったが、3000mの長距離戦であるにもかかわらず、最初の1000mを59秒台のハイペースで逃げ、第3コーナーから失速して15着に敗れた。勝ったのはホリスキーで、ハギノカムイオーが前半を速いペースで引っ張ったため、優勝タイムは3分05秒4という世界レコードとなった。
[編集] 宝塚記念へ
1983年、5歳になったハギノカムイオーは、緒戦のスワンステークス(芝1600m)を逃げ切って優勝した。 続く宝塚記念では後続に5馬身の差をつけ、2200mを2分12秒1のレコードで逃げ切った。これによってハギノカムイオーの収得賞金が1億9000万円を超え、購買価格の元が取れたなどと言うものもいた。3週後、ハギノカムイオーは1.0倍の大本命となって高松宮杯も逃げ切り勝ちを収め、3連勝とした。
その後休養をはさんで11月に復帰したが、緒戦が8頭中7着。2戦目のジャパンカップは向う正面では30馬身も引き離す逃げを見せ4角まで先頭と見せ場を作ったがスタネーラの最下位と大敗した。続く有馬記念もリードホーユー最下位になった。その後、現役引退が発表された。
[編集] 父として
ハギノカムイオーは、日隈と中村の共同名義のまま種牡馬となって、中村の経営する牧場の種牡馬部門で繋養された。種付料は200万で、これは内国産馬としてはマルゼンスキーに次ぐ高額である。
子供は1987年から競馬にデビューしたが、中央競馬の重賞勝馬は出ていない。1992年に牝馬のハギノピリカが小倉競馬場の芝1000mのレコード(56秒4)を出した。
- 主な産駒
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- カムイファースト 開設記念(佐賀公営)
- ハギノミリオネール 二十四万石賞、高知建依別賞(高知公営)
- フリーダムワールド 青山記念(新潟公営)
- カムイフジ (ラジオたんぱ賞 2着)
- タマモベイジュ
- ハギノスイセイ
- ハギノッレジェンド
- ハギノミリオネール
- カッスルキング
- ハギノラインナップ
- ミホブラウン
- コウチカムイオー
- シャンパンファイト
- ハギノウィナー
- ホッカイカオリ
- ダイタクサンビーム
- アクロスザシー
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