ネルトリンゲンの戦い (1634年)
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ネルトリンゲンの戦い | |||
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戦争: 三十年戦争 | |||
年月日: 1634年9月6日-9月7日 | |||
場所: ネルトリンゲン近郊,ドイツのバイエルン | |||
結果: 皇帝軍の勝利 | |||
交戦勢力 | |||
スウェーデン王国 ザクセン選帝侯 ハイルブロン同盟 |
神聖ローマ帝国 スペイン王国 |
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指揮官 | |||
ザクセン・ワイマール公ベルンハルト グスタフ・ホルン |
フェルディナント3世 マティアス・ガラス フェルディナント枢機卿 |
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戦力 | |||
歩兵 16,300 騎兵 9,300 大砲 54 |
歩兵 20,000 騎兵 13,000 大砲 32 |
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損害 | |||
死傷 13,000-15,000 | 死傷 3,500 | ||
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ネルトリンゲンの戦い(Schlacht bei Nördlingen)とは、三十年戦争中の1634年9月6日にドイツのネルトリンゲン郊外で行われた戦いである。スウェーデン軍およびドイツ・プロテスタント諸侯のハイルブロン同盟と、皇太子フェルディナントを総司令官とする、神聖ローマ皇帝軍およびスペイン軍が交戦し、皇帝軍が勝利した。
目次 |
[編集] 経緯
[編集] カソリックの動き
1634年2月25日にヴァレンシュタインが皇帝によって暗殺されると、総司令官の座は、空白となった。皇帝フェルディナント2世は、皇帝の嫡男フェルディナントを総司令官に任命した。皇帝による強引な人事であったが、フェルディナントが帝位継承者である事を帝国内に知らしめる人事であった。その為、フェルディナントの地位は、飾り物であった。もっとも、ネルトリンゲンにおける勝利によってフェルディナントは、名声と存在感を知らしめる事には成功した。
[編集] プロテスタント側の対応
一方、プロテスタント勢力は、英雄となったスウェーデン王グスタフ・アドルフの死によって、士気は低下していた。ヴァレンシュタイン暗殺後、スウェーデン宰相オクセンシェルナの手腕によって、5月18日にハイルブロン同盟が結ばれていた。しかし、結成当初からこの同盟関係はぎくしゃくしていた。ザクセン選帝侯が、スウェーデンが同盟の盟主に立つ事を拒絶したのである。さらにフランス王国宰相リシュリューが、条約違反を盾に、同盟に横槍を入れたのである。スウェーデン軍の強大化を望まなかったのである。結局、指揮はザクセン・ワイマール公ベルンハルトと、スウェーデン軍将軍グスタフ・ホルンが取る事になったが、同盟はフランスの影響下に置かれる事となった。これはスウェーデン軍にとっては弱点ともなった。しかもベルンハルトとホルンには軋轢が生まれつつあったのである。
[編集] 両軍ネルトリンゲンへ
こうした状況下では、プロテスタント勢力は、完全には劣勢を打開できなかった。それでも攻勢に出て、バイエルンとボヘミアに軍を二手に分けて攻撃したものの、戦況は芳しくなく、この情勢を見た皇帝軍は、南ドイツを勢力下に収めていくのである。そしてプロテスタントの帝国都市ネルトリンゲンを包囲するのである。ネルトリンゲンは、ハイルブロン同盟の重要な都市であった。皇帝軍は、スペイン軍を頼みとしていた。9月2日、ついにスペイン軍が到着。後方を突かれた同盟軍は、ネルトリンゲンへととって返した。
[編集] 開戦
9月6日、両者は、ネルトリンゲン郊外で開戦する。皇帝軍・スペイン軍は33000人、ハイルブロン同盟軍は25000人である。グスタフ・アドルフであったらこの差は劣勢ではなかったかもしれない。しかし同盟軍は、ベルンハルトとホルンの反目で統制がとれていなかった。しかし、開戦当初は、同盟軍が優勢に立った。狙いは、皇帝が陣を張る丘である。ドイツ人兵士は、スウェーデン軍を恐れていた為、攻勢に出れなかったのである。一方スウェーデン軍は、我先にと、皇帝の陣取る丘に突撃を繰り返した。そこに混乱が起きるのである。皇帝軍は丘から撤退、スウェーデン軍は、丘を占拠したかに思われたが、統制の取れていなかったスウェーデン兵が、火薬処理に失敗し、死傷者が出るに至ったのである。同盟軍に動揺が出始めた時、皇帝軍の後方に控えていたスペイン軍が投入されたのである。丘は奪回され、その後も混戦は続いたが、スペイン軍の堅い守りに遮られ、同盟軍は敗退した。損害の大半は、スウェーデン軍であった。スウェーデン軍の戦死者だけで17000人、捕虜は4000人にも上ったのである。そしてその捕虜の中にホルン将軍も含まれていたのである。
[編集] 戦果
勝利の報を受け取った皇帝フェルディナント2世は、うれし涙にむせいだと言う。 ネルトリンゲンの戦いの後、スウェーデンとハイルプロン連盟は極度の不振に陥った。ドイツ中部、南部の帝国都市は次々と皇帝軍の手に落ちた。ザクセン選帝侯は、皇帝との単独講和を探り始め、スウェーデン軍は、長いことスウェーデン本国と断絶状態であった為、これ以上の戦費を調達出来なくなった。スウェーデンの勢力は一気に減退してしまうのである。そしてハイルブロン同盟も形骸化した。 翌1635年2月、ザクセン公は皇帝と休戦し、5月30日には「プラハ条約」で和睦したのである。