ナイメーヘン
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ナイメーヘン(Nijmegen)はオランダの都市。ヘルダーラント州に属する。人口は約16万人(2006年)。大規模なウォーキングの大会が開催されることで知られている。ナイメヘン、ネイメーヘンなどとも表記される。
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[編集] 地勢
ライン川の分流であるワール川沿いに位置する都市。ドイツ国境に近く、数キロ東にはドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州が位置する。約75キロ南東辺りに、ルール地方の工業都市が位置している。オランダ内における近隣の都市としては、約60キロ北西のユトレヒト、50キロ南西のアイントホーフェンなどが挙げられる。
[編集] 産業
内陸における水運の要所である。製造業も盛んで、化学製品や電気製品などが積み出される。近年は、大規模なウォーキングの大会に世界から参加者が大挙するようになり、旅行者の来訪も増加している。
[編集] 歴史
古代ローマ帝国時代に起源を有する、オランダではマーストリヒトと並んで歴史ある街である。ローマの侵攻に抵抗していたバタヴィア族やフリース族などの建てた要塞が、前1世紀頃にローマによって陥落させられた。それ以降、ローマがこの地に軍事拠点として「Navio Magus」を設置し、ラテン語の普及などローマ化が進められた。現在も、ワール川付近にはローマ帝国時代の城壁が残されている。
ローマ帝国の衰退にともないフランク王国の統治下におかれ、8世紀後半にはフランク王国のカール大帝によって王宮が置かれた。(ナイメーヘンのほか、アーヘン、ヘルスタルにも置かれ、とりわけアーヘンの王宮では古典文化の復興などが進められた。)その立地より水上交通の要所として発展し、12世紀には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が軍事拠点を置いた。1230年にはフリードリヒ2世によって都市特権が認められ、帝国自由都市となった。その後、ハンザ同盟にも加盟したほか、イングランドから羊毛を輸入して毛織物工業の振興も図られた。
1568年に勃発した八十年戦争(オランダ独立戦争)では、ナイメーヘンもユトレヒト同盟に参加して独立戦争を戦い抜いた。途中で独立を断念した南部に隣接していたため、幾たびか激しい戦闘に見舞われたが、オランダの一部として独立を果たした。17世紀後半、フランス王ルイ14世が領土的野心よりオランダ侵略戦争(1672年-1678年)を起こした。この際の講和条約はナイメーヘンで締結された。18世紀後半には、反オラニエ=ナッサウ家への革命機運がオランダで高まる中、一時的にオラニエ家がナイメーヘンへと逃げこんだことがあった。
19世紀になると、人口増加の問題から市壁撤去と市の近代化が図られた。市、そしてオランダの国防上反対もあったが、もはや近代の戦争において歴史的市壁は無力であったことが19世紀後半の普仏戦争などからも明らかとなり、市壁は崩されて市街改造は断行された。19世紀後半にはワール川を超える橋が架けられ、鉄道が運行されるようになった。20世紀初頭、本来は軍事訓練の一環として始められたウォーキングは、徐々にその性格を薄め、現在では世界最大規模のウォーキング大会となっている。1923年にはカトリックの大学が建てられた。
第二次世界大戦では、1940年にドイツ軍の占領を受けた。そのため、1944年9月に連合軍が河川の橋を確保しようとしたマーケット・ガーデン作戦では熾烈な衝突地点となり、街の多くは破壊された。しかし、第二次世界大戦後に破壊された歴史的建造物も含め復興が進められ、現在へと至っている。
[編集] スポーツ
NECナイメーヘンがナイメーヘンを本拠地とするサッカークラブ。1900年創設の歴史あるクラブだが、近年はエールディヴィジの下位に位置することが多い。一時、フース・ヒディンクが在籍していた。その他、世界最大規模のウォーキング大会(International Four Days Marches Nijmegen)が開催されることでも知られる。
[編集] 著名な出身者
- ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)
- エドワード・ヴァン・ヘイレン(ヴァン・ヘイレンのギタリスト。12歳で渡米。)
[編集] 姉妹都市
- 東松山市、日本(日本最大規模のウォーキング大会「日本スリーデーマーチ」の開催地)
- プスコフ、ロシア
[編集] 関連項目
- ナイメーヘンの和約(オランダ侵略戦争の講和条約)
[編集] 外部リンク
- ナイメーヘンの公式サイト(オランダ語)
- NECナイメーヘンの公式サイト(オランダ語)