テルモピュライの戦い
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テルモピュライの戦い | |
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戦争: ペルシア戦争 | |
年月日: 紀元前480年8月 | |
場所: ギリシアのテルモピュライ | |
結果: ギリシア軍の敗退 | |
交戦勢力 | |
ギリシア連合軍 | アケメネス朝ペルシア |
指揮官 | |
レオニダス | クセルクセス1世 |
戦力 | |
5,200 | 2,100,000 |
損害 | |
1,000以上 | 20,000以上 |
テルモピュライの戦い(-たたかい、Battle of Thermopylae)は、ペルシア戦争さなかの紀元前480年、テルモピュライで、スパルタを中心とするギリシア軍とアケメネス朝ペルシアの遠征軍の間で行われた戦闘。ヘロドトスの『歴史』(第7巻)に記述される。
海戦(アルテミシオンの海戦)ではギリシア艦隊がペルシア遠征軍に善戦したが、テルモピュライではペルシアの圧倒的な戦力の前に敗退した。しかし、スパルタ軍は全滅するまで戦い、ペルシア軍を3日間に渡って食い止めた。
目次 |
[編集] 背景
ペルシア遠征軍の侵攻を知ったギリシア側は、イストモスにおいて会議を開き、ペルシア艦隊をアルテミシオンで、クセルクセス本隊をテルモピュライで迎え撃つことを決議した。テルモピュライ・アルテミシオンの防衛線は、アッティカ以北を防衛するための戦略的に極めて重要な意味を持つ地点だった。ギリシア側はスパルタ王レオニダス率いる先遣隊を派遣し、マケドニアのテルマ(現テッサロニキ)から南下する総兵力210万を超える大部隊を迎え撃つことになった。
テルマを出立したペルシア陸戦隊は、テルモピュライ近郊のトラキスに陣をはったが、その兵力規模の大きさにギリシア側は全軍が恐怖に陥った。ペロポネソスから派遣された兵は、イストモスを防衛すべきとして撤退を主張したが、これにポキスとロクリスが強硬に反対したため、レオニダスはテルモピュライでの決戦を決意、ギリシア諸都市に使者を送って支援を要請した。
クセルクセスはギリシアの動きを察知していたが、ギリシア部隊がまともに戦闘をおこなうとは信じられず、ギリシア部隊が撤退するのを4日間待った。しかし、5日目になってもギリシア軍が撤退する気配を見せなかったため、クセルクセスはメディア軍に攻撃を命じた。
[編集] 両軍の戦力
[編集] ギリシア陸戦部隊
スパルタ重装歩兵: | 300 |
テゲア兵: | 500 |
マンティネイア兵: | 500 |
オルコメノス兵: | 120 |
アルカディア各都市の兵: | 1000 |
コリントス兵: | 400 |
プレイウス兵: | 200 |
ミュケナイ兵: | 80 |
テスピアイ兵: | 700 |
テバイ兵: | 400 |
ポキス兵: | 1000 |
合計 | 5,200 |
[編集] ペルシア陸戦部隊
歩兵: | 1,700,000 |
騎兵: | 80,000 |
その他: | 20,000 |
ヨーロッパより参加の歩兵: | 300,000 |
合計 | 2,100,000 |
以上はヘロドトスの述べる数字である。ペルシア遠征軍の陸上部隊の実数については多くの学説が提唱されており、6万から21万まで様々な推定がされている。
[編集] 戦いの経過
テルモピュライは、テッサリアから中央ギリシアに抜ける幹線道路だったが、峻険な山と海に挟まれた街道は、最も狭い所で15メートル程度の幅しかなく、ペルシア陸軍は大軍を優位に展開することが出来なかった。ペルシア側の先陣を切ったメディア軍は、多大な被害を出しながらも終日に渡って戦ったが、ギリシア部隊を敗走させることができなかった。
ギリシア軍の猛攻を目の当たりにしたクセルクセスは、2日目にはヒュダルネス率いる不死部隊を投入したが、街道にもうけられた城壁を利用して防衛するギリシア軍を突破できなかった。現状を打開できなかったクセルクセスは苦慮したが、山中を抜けて海岸線を迂回するアノパイア間道の存在を知り、これを利用することを命じた。ペルシアの不死部隊は土地の住民を買収し、夜間、この山道に入った。この道を防衛していたポキスの軍勢1,000は、ペルシア軍に遭遇するとこれに対峙すべく山頂に登って防衛を固めたが、スパルタ軍ではないと悟ったペルシア軍はこれを無視して間道を駆け降りた。翌朝、不死部隊はギリシア軍の背面に展開した。
3日目の未明にアノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは会議を開いたが、徹底交戦か撤退かで意見は割れた。結局、撤退を主張するギリシア軍は各自防衛戦から撤退し、スパルタ重装歩兵とテバイ、テスピアイ兵は、共にテルモピュライに残った。
夜明けを待って、レオニダスは全軍に出撃を命令した。それまでは、街道の城壁での防衛を主としていたが、この日は道幅の広い場所まで進撃した。彼らは槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯を使い、全軍が玉砕するまで戦った。ヘロドトスによれば、この戦いによるペルシア軍の戦死者は2万人とされる。
[編集] 戦いの影響
この戦いでレオニダスとスパルタ兵は英雄として讃えられ、テルモピュライにはスパルタ軍を記念して碑が置かれた。碑文はシモニデスが草したもので、ヘロドトスによれば、「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に。我等かのことばに従いてここに伏すと」(ラケダイモンはスパルタのこと)と唱われている。現在はコロノスにこの言葉を刻んだ石碑が設けられている。
スパルタとともにテルモピュライに残ったテバイ兵は、彼らが全滅するに及んでペルシア側に投降し、ペルシア遠征軍に組み込まれた。この戦いに敗退したギリシアは、防衛線を大きく後退させ、 デルポイ、アテナイ、メガラを占領した。
[編集] 2度目の戦い
紀元前4世紀から3世紀にかけてバルカン半島を南下し、ギリシアに接近していたガリア人は、紀元前279年にブレンヌスのもとに結集してギリシアを目指した。これに対してギリシアの諸ポリスは再びテルモピュライに集結して防衛線を敷いた。ガリア人の度重なる攻勢に対してギリシア勢はよく守備したが、最終的にはペルシア戦争時と同じく地元住民から間道のことを聞き出したガリア人の部隊がギリシア軍の後方に回りこんだ。しかしこの時は、沖合いに展開して掩護に当たっていたアテネの艦隊に収容されたため、守備隊は全滅という悲劇の再現を免れている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- de Souza,Philip『The Greek and Persian Wars 499-386BC』Osprey Publishing
- ヘロドトス著 松平千秋訳『歴史(下)』(岩波文庫)
- 仲手川良雄著『テミストクレス』(中公叢書)
- 馬場恵二著『ペルシア戦争 自由のための戦い』(教育社)