テオドロス1世ラスカリス
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テオドロス1世ラスカリス(1175年ごろ - 1222年)は、ビザンツ帝国の亡命政権であるニカイア帝国の建国者で初代皇帝。ビザンツ帝国の大貴族の出身。父親はマヌエル・ラスカリス、母親はヨアンナ・カラツァイナ。兄はコンスタンティノス・ラスカリス。
1199年に、ビザンツ帝国皇女と結婚し、第4回十字軍によるコンスタンティノポリス襲撃(1203年~1204年)の間に名を揚げる。コンスタンティノポリスの陥落後に、避難者の一団をビチュニアに集めて、ニカイアに定住。この地がビザンツ帝国民にとって再出発の場となった。ひとまず十字軍の危険から解放されるが、ブルガリア人の侵攻によってヨーロッパを思い出しつつ、小アジアの地に新生ビザンチン国家の建国事業に着手。1206年に皇帝の称号を獲得する。
それから数年間に、駆け出しの国家を取り巻く敵国に付きまとわれる。ラテン帝国皇帝アンリ・ド・エノーに対する打倒運動をしぶとく続け、強敵トレビゾンド帝国皇帝アレクシオス1世を破り、その後も快進撃を続けて、ルーム・セルジューク朝のスルタン、カイホスロー1世に逆襲に出る。
カイホスロー1世は、また帝位がほしくなった義父アレクシオス3世アンゲロスに唆されて、ニカイア帝国に出兵したのである。1210年、帝位は確実にテオドロス1世のものとなる。アンティオケイア付近の会戦で、アレクシオス3世を捕縛し、トルコ軍と相まみえた。
治世の末期に、だいたいビチュニアから小アジアに領土を広げた。政治家として高い資質が恵まれたという証拠はないものの、彼の度胸と武勲によって、ビザンチン帝国民は生き存えることができただけでなく、西欧の侵入者に反撃することもできるようになったのである。
テオドロス1世ラスカリスは、アレクシオス3世の皇女アンナ・アンゲリナとの最初の結婚によって、2人の娘をもうけた。長女イレーネー・ラスカリナはヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスと結婚し、次女マリア・ラスカリナはハンガリー王ベラ4世に嫁いだ。
1212年にアンナ・アンゲリナが崩御すると、テオドロス1世はアルメニア王女フィリッパと再婚するが、翌年には信仰上の理由から結婚無効とされ、息子コンスタンティノスは廃嫡された。1219年には、敵国ラテン帝国より、ピエール・ド・クルトネーとヨランド・ド・エノーの皇女マリー・ド・クルトネーを皇妃に迎えるが、子宝には恵まれなかった。
- この記述はパブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』("Encyclopædia Britannica" 1911年版)に基づいています。