ソーカル事件
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ソーカル事件(ソーカルじけん)とは、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカル(Alan Sokal、1955年-)が権威付けに数学・科学用語を不適切に使用した哲学者を批判するために同じように科学用語と数式をちりばめた出鱈目の哲学論文を執筆。これを著名な学術誌に送り見事に掲載された事件。掲載と同時に論文が出鱈目であることを発表。フランス現代思想系の哲学の批判の一翼となった。
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[編集] 内容と影響
アラン・ソーカルは、ポストモダンの哲学者や社会学者達の言葉をそのまま引用し、それに数学と理論物理学を深く関係付けることによって、『境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて』(Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity) November 28, 1994 という出鱈目の論文を書き上げた。それを当時最も権威ある雑誌の一つ『ソーシャル・テキスト』誌に投稿し、それが出鱈目であることを見抜けるかどうかを試した。その結果、論文はソーシャル・テキスト誌にそのまま掲載されたSocial Text #46/47, pp. 217-252 (spring/summer 1996)。なお、同誌の編集者は、この件によりイグノーベル賞を受賞している。
このような出鱈目な論文を投稿したことについて、いわゆるフランス現代思想として分類される思想家の多くは「悪意ある悪戯」「学者の最低限の倫理規範を踏みにじった」などと反発した。しかし、ソーカルの真意は思想家が数学や物理学をその意味を理解しないまま模倣していることへの批判だった、と後にコメントしている。論文に用いた数学らしき記号の羅列は、数学者でなくとも自然科学の高等教育を受けた者なら、それがいいかげんであることはすぐに見抜けるお粗末なものだったが、それらは著名な思想家たちが論文として発表しているものをそっくりそのまま引用したものだった。
ソーカルはメタファーへ言及する権利を哲学者から奪ったわけではない。ソーカルが攻撃の対象としたのは、思想を語るためではなく、読者を煙に巻くために安易に数式を用いている哲学者の欺瞞だった。このような理由のため、この事件により「ポストモダン哲学」は出鱈目であることが明らかになったという言説や風説自体は本来成立しない。しかし、ソーカルの批判の対象となった哲学者の支持者達は、ソーカルの批判に真剣に取り組もうとせず、「哲学を分かっていない」といったコメントを発する程度のことしかしないなど、 全く反論にならない感情的な反発しかしなかったこともあり、彼らに関して言えば出鱈目というレッテルを払拭できないのが現状である。
その後、1997年、ソーカルは物理学者ジャン・ブリクモンとともに『「知」の欺瞞』(Impostures Intellectuelles) を著し、自然科学用語のいいかげんな使い方に対する具体的な批判を展開した。
なお、同書は認識論における認識的相対主義も批判の対象にしている。ただし、この分野に関しては、「素朴実在論」「クーン以前」などの批判も多い。例として、ソーカルによると、対象の認識が難しくても、対象の存在そのものは客観的であるという。その一例として「犯罪捜査」をあげ、どこかに犯人がいるのだから、犯人を見つけねばならないことは明らかであると主張する。だが、必ずしも、すべてが当てはまるわけではない。例えば前例では、何をもって犯罪とみなすのかがすでに「前提」とみなされており、捜査について共通の了解があるということを暗黙においている。だが、そもそもの犯罪の定義に共通の了解がない場合、ソーカルたちの「実在論」では論証が難しい。これでは、クワインやクーンよりも議論が後退してしまう。
ジャック・ラカン、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ジュリア・クリステヴァ、ミッシェル・セール、ポール・ヴィリリオ、ジャン・フランソワ・リオタールなど攻撃対象となった者の多くがフランス人の思想家だった。
なお、ポストモダン・ポスト構造主義の思想家であっても、ジャック・デリダ、ミシェル・フーコーは、自然科学用語は殆ど使用していないので、ソーカル事件においては直接批判対象になっていない。しかしフーコーは史実の乱用(代表例:J.G. メルキオール(著)『フーコー 全体像と批判』 )、デリダは言語の乱用(ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインやノーム・チョムスキーが批判の代表例)で同じように批判されている。
[編集] 主張
ソーカルとブリクモンは『「知」の欺瞞』の中で、一部の衒学的な哲学者が出鱈目な科学知識を使う事に対して以下の趣旨の事を述べている。
- 科学的な比喩を使う事自身に問題があるわけではない。しかし「比喩」は難しい事を簡単に説明する為に用いるのであって、その逆ではない。彼らは簡単な事を難しく言う為に比喩を使っている。たとえば私が量子力学をデリダの精神分析に比喩しながら説明したら失笑を買うはずだ。
- 彼らの科学的誤りは、「些細な誤り」として見過ごす事のできないレベルのものであり、事実や論理に対する軽蔑、といわないまでもひどい無関心がはっきりとあらわれている。
- 化学や生物学にすら顔を出さない深遠な数学的概念が社会科学に奇跡的にも関係する、というような話は疑ってかかるべきだ。
- 彼らの哲学としての成果自身に甲乙をつけたいわけではない。彼らが分かりもしない科学的知識を使っている事を批判したいだけである。
- 別にポスト・モダニストだけが悪いわけではない。自分にできるのはポスト・モダニスト批判だけだったから彼らを批判したに過ぎない。
- これら科学のデタラメな乱用で本当に被害を受けるのは、自然科学よりも社会科学だ。なぜなら彼らの無意味な議論で不毛な時間を費す事になるのだから。
- 我々は人文科学自身を批判したいのではない。人文科学を重要だと考えるからこそ、こういう無意味な議論をとりのぞきたいのだ。
- 我々はたしかに人文科学の専門家ではない。しかし批判の正しさに専門家かどうかは関係ない。言語学者のチョムスキーもいっているように、中身の濃い分野ほど肩書きよりも内容に興味を持ち、中身の薄い分野ほど内容よりも肩書きに興味を持つ。
[編集] 参考文献
- アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン 『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』 田崎 晴明、大野 克嗣、堀 茂樹訳 岩波書店、2000年