ステージ101
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ステージ101(すてーじいちまるいち)は、1970年1月10日から1974年3月31日までNHK総合テレビで放送された音楽番組である。
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[編集] 概略
- タイトルの「101」とは、当時東洋一の広さ(現在も放送局全体では最大級の広さ)を誇った渋谷のNHK放送センター「CT-101」スタジオで収録されていたことによる(番組開始から1973年7月末の渋谷の現在の放送センターへの完全移転までは、NHKの本部は千代田区内幸町にあった東京放送会館が機能を持っていたが、渋谷の現在の放送センターも「CT-101」スタジオを含め、1965年から本格的に運用が開始されていたので収録も内幸町ではなく渋谷で行われていた。)。
- 番組のために日本国内各地でオーディションが行われ、その合格者と、すでにメジャー活動をしていたザ・バロンやシングアウトといったグループも集まり「ヤング101」が結成された。
- 1969年11月3日に、シャンソン歌手の石井好子と俳優の関口宏を司会に迎えて祝日の特集番組としてまず放送され、翌1970年1月よりレギュラー放送が開始された。メジャーからマイナーまで幅広い上質な音楽や海外のポピュラーを仕入れ、全国の若者からの支持を得た。また、番組で生まれたオリジナルソングや「ヤング101の歌」も人気を得た。
- 元デュークエイセスの和田昭冶、振付師の坂上道之助らも講師陣として非常に厳しいレッスンでメンバーを育て上げ、現在に至る音楽や演劇のプロフェッショナルがメンバーから多数活躍しているのも特徴。
- 放送当時は放送された番組よりも録画媒体のほうが貴重な時代であり、ビデオテープは上書き使用が基本だった。このため、現在残っているのは、放送用ビデオテープでNHKに残された1974年3月31日放送の最終回と、関係者がたまたま録画していた「開拓」(1972年1月19日放送、直後に控えていた札幌オリンピックに関連したテーマ、一部映像に乱れがある)の回の、2本しかない。これらは、NHKアーカイブスと全国のNHK公開ライブラリーで見ることができる。
[編集] 歴史
[編集] 草創期
そもそもこの番組は、全世界を覆った学園紛争の嵐で傷ついた若者の心を癒し、良質の音楽を紹介しようという意図で企画された。
1960年代前半「夢であいましょう」の演出を手がけたNHKのディレクター(当時)末盛憲彦は、許可を得て渡米。そこで、アメリカならではのミュージカルバラエティー番組「ヤングアメリカンズ」を目にし、衝撃を受けた。
「こんな番組が、日本でもできないだろうか…」帰国した末盛は、当時まだ国営放送的官僚体質が色濃く残っていた局内を説得し、プロジェクトをスタート。
手始めとして、関東地方の若者を対象としたオーディションを実施。合格者には、各界の実力者を講師陣に迎え、約1年にわたり厳しいレッスンを行った。歌や踊り、芝居の基礎が、みっちりと叩き込まれた。
やがて1969年、レッスンを積んできた若者たちに、プロとして活躍していた「ザ・バロン」「シングアウト」などのグループを加え、新たなグループが結成された。そして11月3日、シャンソン歌手の石井好子と俳優の関口宏が司会を務めた特別番組が放送された。このときが「ヤング101」のお披露目であったが、グループ名の発表は、その年のNHK紅白歌合戦を待たなければならなかった。
[編集] 成長期
翌1970年1月に、関口を司会として、週1回のレギュラー番組がスタート。末盛らの狙い通り、たちまち全国の若者たちをとりこにした。
編集方針は、フォークソングなど当時の流行歌は流さず、海外の名曲や番組の音楽スタッフが作ったオリジナルソングなどを歌うということが徹底された。レッスンは番組が始まってからも続き、メンバーは次第に力をつけていった。
やがてヤング101は活躍の場を、NHK以外にも広げていった。番組連動企画ながら、日本万国博覧会(EXPO '70)や札幌冬季五輪の関連イベントに参加するなど、社会現象となっていった。
NHKには、「俺たちもヤング101に入れてくれ」という声が数多く寄せられるようになった。これを受け、1971年~72年にかけて、対象を全国に広げた大規模オーディションが実施された。
[編集] 転換期
ほとんど初期のメンバーは20歳代が中心であり、初期メンバーの一人、ザ・チャープスの三女・えり子は中学生の頃からメンバーとして活躍していて、西玲子も現役高校生だった。1972年に入ると、代替わりによってヤング101メンバーの低年齢化が起こり、オーディションによって新たなメンバーが次々に加わる一方、初期のメンバーが次々に卒業していき、この頃から現役女子高生のメンバーも増加した。その代表的な存在が、谷山浩子、太田裕美などである。特に太田はスクールメイツに所属してはいたが、全国にその名が知られるきっかけになったのはやはりこの番組であり、メンバー内でもアイドル的存在として位置づけられていた。
そして、この入れ替えによって、ヤング101は「自立」していった。力をつけた初期メンバーは、番組内においては講師陣やほかのスタッフに代わって、指導的な役割を担うようになった。結果として、自分たちだけで、番組の進行を行えるまでに至ったのである。
[編集] 終末期
全世界が激動の渦に呑み込まれた1973年、ヤング101は完全に自立、自分たちだけで番組を進行。テーマ曲も、これまでの「ヤッポン!」に替わり、新しいオリジナル曲となった。
この頃になると、番組の幕引きを匂わせるような動きが見られるようになった。
- 一部例外を除いてほぼ全てスタジオの中で番組が進められ、視聴者と直に接する機会があまり無かった。そのため、開始当初の全国的熱狂は冷め、視聴者は一部の特定の層に限られるようになった。
- この年の7月31日、NHKは内幸町から渋谷への移転を完了、同時にNHK東京ホールが開業した。NHKでは、東京ホールを活かした新たな番組の制作が大きな課題となった。
- 番組幕引きを決定付けたのが、第一次オイルショック(石油危機)だった。エネルギー消費の節減、経費の削減がNHKにとっても大きな課題となり、101関係の費用は削減対象となった。
こうして、1974年3月31日午後6時40分、ステージ101はその歴史に幕を下ろし、程なく、ヤング101も解散した。最後まで残ったメンバーは、それぞれの道を歩み始めた。
[編集] 放送時間
- 毎週土曜日 午後8時00分~9時00分 (1970年1月10日~1971年4月3日)
- 毎週水曜日 午後8時00分~8時45分 (1971年4月7日~1972年3月29日)
- 毎週日曜日 午後7時20分~8時00分 (1972年4月9日~1973年4月1日)
- 毎週日曜日 午後6時00分~6時40分 (1973年4月8日~1974年3月31日)
なおこの放送枠は、『レッツゴーヤング』→『ヤングスタジオ101』→『ジャスト・ポップ・アップ』→『ポップジャム(POP JAM)』と現在まで音楽番組が続いており、『ステージ101』はNHK若者向け(ポップス系)音楽番組の先駆け的存在となっている。
[編集] 歴代司会者
1972年4月~9月まではマンスリーゲスト(沢田研二、加山雄三、西郷輝彦など)を事実上の司会者として招き放送。同年10月から最終回放送までは若子内悦郎、西玲子(1973年10月21日で西は卒業している)を中心にヤング101のメンバーで番組進行を行った。
[編集] 歴代音楽監督
[編集] 番組テーマソング
- ステージ101テーマソング(ヤッポン) 作詞:井上頌一、作曲:中村八大、編曲:中村八大 (1970年1月10日~1972年3月29日)
- ステージ101テーマソング(ヤッポン) 作詞:井上頌一、作曲:中村八大、編曲:東海林修 (1972年4月9日~1973年4月1日)
- ステージ101 テーマ'73 作詞:岡田冨美子、作曲:若子内悦郎、編曲:東海林修 (1973年4月8日~1974年3月31日)
- 歌はいずれもヤング101
[編集] ヤング101出身者
- 一城みゆ希
- 伊藤三礼子(歌手伊藤久男の長女。弟にあたる悟氏もメンバーだった)
- 太田裕美
- 小原初美
- 上条恒彦
- 串田アキラ
- こおろぎ'73(一部メンバーが出身者)
- 小林啓子
- ザ・チャープス
- 塩見大治郎
- 庄司淳
- 諏訪マリー
- 芹澤廣明
- 惣領泰則
- 田頭信幸
- 田中星児
- 谷山浩子
- 樋口康雄
- 藤島新
- 桝川譲治
- 山崎イサオ
- 山田美也子
- 若子内悦郎
[編集] おもな番組オリジナルソング
- 夕べの祈り
- 涙をこえて(この曲自体は、前年よりヒットしていたが、「ステージ101」オリジナルソング第1曲目となった。グループシングアウトが歌った。作詞はかぜ耕士(かぜこうじ)、学校の卒業式などにも歌われる名曲となっている)
- 恋人中心世界
- しあわせの限界
- ハイスクール・ブギ
- ピコ・ピコ・ピッコ
- のんびり
- 脱線列車にのり込んで
- 若さがあるから
- 今なら間に合うだろうか
- 若い旅
- 心、心よ
- 君のコスモス
[編集] おもな「ヤング101の歌」
[編集] 外部リンク
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