ジュリアス・アービング
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ジュリアス・アービング(Julius Erving、フルネームはジュリアス・ウィンフィールド・アービング二世 Julius Winfiled Erving II、1950年2月22日 - )は、アメリカ合衆国の元バスケットボール選手。1970年代から1980年代にかけてABAとNBAで活躍した。ダンクシュートの名手として知られ、並外れた跳躍力を活かしたダンクは芸術と評されることすらある。Dr. J というニックネームでも有名である。身長201センチ。ニューヨーク州ローズベルト生まれ。
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[編集] 学生時代
地元のルーズベルト高校でプレイしている時期に、二度オールカンファレンスチームに選出されている。
大学はマサチューセッツ大に進学。大学時代に平均して20得点20リバウンドを上げた数少ない選手の一人だった。大学では3年間プレイした。公式の記録として残されるのは2年生、3年生の時のみのものだったにもかかわらず、得点などで同大学の記録をいくつか保持している。
[編集] ABA
1971年にABAのバージニア・スクワイアーズにフリーエージェントとして入団。1年目で27.3得点、15.7リバウンドを記録している。
なお、シーズン後の1972年には大学4年生を終えたということでNBAのミルウォーキー・バックスに全体12位で指名されている。もしもバックスに加入していれば、カリーム・アブドゥル=ジャバーやオスカー・ロバートソンのチームメイトになっていたはずだった。
スクワイアーズの2年目には平均31.9得点を上げ、リーグの得点王になる。このシーズンが終わるとアービングはニューヨーク・ネッツにトレードされる。
以後ABAが消滅するまでの3年間を同チームで過ごす。この間、1974年と1976年には得点王とリーグのMVPになり、1975年にはジョージ・マギニスとともにMVPを共同で受賞した。1973年および1974年から1976年まで、ABAオールスターファーストチームに選出されている。また1974年、1976年にはネッツでリーグ優勝を経験し、ともにファイナルのMVPに選ばれている。
得点能力のみならず、アービングのダンクシュートの技能は当時から際立っていた。特に1976年のオールスター戦ハーフタイム中のダンクコンテストで見せたフリースローラインから跳んでのダンクは人々を驚嘆させた。
アービングは事実上ABAで最も人気のある選手と言っても過言ではなく、リーグを代表するスター選手だった。
[編集] NBA
1976年、経営難によりABAが解体・消滅すると、リーグに属していたデンバー・ナゲッツ、サンアントニオ・スパーズ、インディアナ・ペイサーズ、ニューヨーク・ネッツはNBAに加わることとなった。のちにニュージャージー・ネッツと改称するニューヨーク・ネッツは、財政難のためにアービングに給与を支払うことができず、金銭と引き換えでフィラデルフィア・セブンティシクサーズ(76ers)にアービングを譲ることとなった。これはシーズン開始前日のことだった。以後アービングは11年間このチームで過ごすことになる。
76ersにはやがてモーリス・チークス、モーゼス・マローンなどの名選手が加わり、リーグ制覇を狙えるほどの強豪に成長する。76ersが所属していたイースタン・カンファレンスではボストン・セルティックスがライバルであり、常に覇を競い合っていた。またNBAファイナルに進出した場合はロサンゼルス・レイカーズなどが立ちはだかり、優勝まであと一歩というシーズンがいくつかあった。
レイカーズに敗れた1980年のNBAファイナル第4戦で、アービングはのちの語り種となるプレイを見せている。バックボード下を滑空中にディフェンダーをかわし、ボードの裏側から腕を伸ばしてリバースレイアップを決めるという離れ技で、今でも時折ハイライトフィルムで流されることのある有名なシュートである。
1981年にはリーグのMVPに選ばれるものの、優勝したのはボストン・セルティックスだった。
そしてついに1983年、プレイオフのカンファレンス・ファイナルでセルティックスを破り、NBAファイナルではレイカーズと対戦。悲願の優勝を果たした。
アービングはNBA在籍中、1978年、1980年、1982年、1983年にオールNBAファーストチームに選出。オールスター戦には1977年から1987年まで11年連続で出場しており、1977年と1983年にはMVPを受賞している。
やがて年齢とともに少しずつ個人成績は低下していき、1986-1987年のシーズンを最後に引退を宣言。引退時の年齢は37歳だった。
[編集] 功績
アービング以前にもエルジン・ベイラーのようなダンクの名手はいたが、時代的な条件もあり、後の時代により強い影響と鮮烈な印象を残したのはアービングだった。彼の系譜はのちのマイケル・ジョーダン、ドミニク・ウィルキンス、ヴィンス・カーターら有名なスラムダンカーに直接的・間接的に受け継がれ、ひいてはリーグ全体の遺産ともなっている。
また彼はNBA人気が興隆する1980年代を現役時代として過ごし、リーグを代表する選手としてファンやマスコミとの間のスポークスマン的な役割も果たしていた。これには彼の温厚で紳士的な物腰も無関係ではなかった。この役割はのちにマジック・ジョンソンやマイケル・ジョーダンに受け継がれていくことになる。
ABAとNBAを通じての通算得点は3万点を超えている。NBA歴代選手のうち、生涯通算得点が3万点を超えているのは、カリーム・アブドゥル=ジャバー、ウィルト・チェンバレン、カール・マローン、マイケル・ジョーダンのみであり、アービングの得点力は歴代屈指だった。
[編集] 引退後
引退後のアービングは、コカコーラの工場やケーブルテレビ局へ投資をする傍ら、NBC局でNBAの試合の解説などの仕事をしている。1997年にはオーランド・マジックのフロントで副社長などの役職に就いている。
1993年にはバスケットボール殿堂入りを果たしている。1996年には「NBA50年間の50人の偉大な選手」の一人に選ばれている。同様の趣旨の賞として、1980年にNBA 35周年のオールタイムチームにも現役ながら選ばれていた。