ジム・アボット
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ジェームズ・アンソニー・アボット(James Anthony Abbott, 1967年9月19日 - )は、アメリカ合衆国のカリフォルニア・エンジェルス、ニューヨーク・ヤンキース、シカゴ・ホワイトソックス、ミルウォーキー・ブリュワーズで活躍したメジャーリーグの元投手。左投右打。生まれつき右手がないというハンディキャップを抱えながら野球を続けた事で知られている。
ミシガン大学時代の1987年に米国一のアマチュア選手に贈られるジェームズ・E・サリバン賞を受賞し、1988年ソウルオリンピックでは金メダルを獲得。その年のMLBドラフトで1巡目指名され、翌年にメジャー昇格。1993年にクリーブランド・インディアンス戦でノーヒットノーランを達成し、通算87勝108敗、防御率4.25の成績を残して引退。現在講演者として活躍中。
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[編集] 競技生活
[編集] アマ時代
アボットは1967年に米国ミシガン州サウスフィールドで生まれ、生後すぐ同州フリントに移り住んだ。生まれつき右手がなかった。フリント中央高校ではエースピッチャーとして活躍する一方で、アメリカンフットボールのクォーターバックとして同校を州大会優勝に導いた。卒業後の1985年MLBドラフトでトロント・ブルージェイズに36巡目指名されるものの契約せず、ミシガン大学に進学した。
ミシガンでは1985年から3年間プレイし、2回のビッグ・テン大会優勝に導いた。1987年には野球選手としては初めて米国一のアマチュア選手に与えられるジェームズ・E・サリバン賞を受賞。同年アメリカ代表としてパンアメリカン大会で好投し、銀メダルを獲得。アボットのアマチュア競技生活での最終試合は1988年ソウルオリンピックの決勝戦であり、アメリカ代表は金メダルを獲得。ジェッシー・オーウェン賞を受賞した後、アボットは1巡目(総合8位)でカリフォルニア・エンジェルスに指名された。
[編集] プロ生活
1989年にプロ入り後、アボットは一度もマイナーリーグの試合で投げることなくエンジェルスの先発ローテンション入りを果たした。21歳のルーキー年には12勝12敗で防御率3.92を記録。プロ1年目での12勝は1976年にデトロイト・タイガースのマーク・フィドリッヒが19勝を記録して以来最多で、同年の新人王投票では5位に入った。
アボットにとって現役最高のシーズンは1991年に訪れた。その年18勝を挙げ、防御率2.89でアメリカンリーグサイヤング賞投票で3位になった。翌1992年シーズンも好投を続け、防御率は前年の数字を上回る2.77を記録したが、成績は7勝15敗でエンジェルスも6位に終わった。同年アボットは病気やハンディキャップを克服して好成績を残した選手に贈られるトニー・コニグリャリオ賞を受賞。
ニューヨーク・ヤンキースに移籍した後の1993年9月4日にはクリーブランド・インディアンス戦でノーヒットノーランを達成。
ヤンキースとその後また移籍したシカゴ・ホワイトソックスでも活躍を続け古巣エンジェルスに復帰したものの、大活躍した1991年シーズンの感触を取り戻すことは無かった。1996年には年間通して苦しみ、残した成績は2勝18敗の防御率7.48と散々なものであり、同年オフに引退した。
しかし1998年にホワイトソックスで現役復帰し、5試合先発で投げその全てで勝ち星を挙げた。アボットは翌年ミルウォーキー・ブリュワーズでも復帰に励み、そこでは好成績を挙げられなかったがDH制のないナショナルリーグのチームだったため野球人生初めて打席に立つことになった。
アボットは1999年オフに2回目の引退を宣言。通算成績は87勝108敗の防御率4.25であった。
2005年にアボットはアメリカ野球殿堂選出のための被投票資格を得たが、全米野球担当記者協会による票数が全体の5%以下だったため、選出資格を喪失。しかし、2001年に施行された現行ルールによると現役引退20年後の年(2020年)にベテラン委員会の投票による選出の道は依然として残されている。
[編集] 一本の手でのプレー
アボットは右利き用のグラブを右手の手首の上に乗せ、投球の直後にそのグラブを左手にはめ直すグラブスイッチと呼ばれる投法を用いた。打球が飛んできた際には即座にグラブでボールを叩き落とし、送球した。それでも、彼の守備は平均以上であったとの統計が残っている。
DH制により投手が打席に立たないアメリカンリーグでの試合が現役生活の大半だったため、アボットにバッティングをする機会はほとんどなく、春季キャンプでもピッチャーとして打席に立つ事はなかった。1999年にナショナルリーグのブリュワーズに移籍した際、21回打席に立ち、2本のヒットを記録した。打つ時は通常アボットは片手でスイングするものの、ほとんどのケースで出たサインはバントであった。しかし春季キャンプで一回三塁打を放ったとも言われており、他の投手に負けず劣らずのバッティングを見せる事ができたとの説が有力である。
年 度 |
球 団 |
勝 利 |
敗 戦 |
防 御 率 |
試 合 |
先 発 |
セ ー ブ |
イ ニ ン グ |
被 安 打 |
失 点 |
自 責 点 |
被 本 塁 打 |
四 球 |
奪 三 振 |
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1989 | CAA | 12 | 12 | 3.92 | 29 | 29 | 0 | 181.1 | 190 | 95 | 79 | 13 | 74 | 115 |
1990 | CAA | 10 | 14 | 4.51 | 33 | 33 | 0 | 211.2 | 246 | 116 | 106 | 16 | 72 | 105 |
1991 | CAA | 18 | 11 | 2.89 | 34 | 34 | 0 | 243.0 | 222 | 85 | 78 | 14 | 73 | 158 |
1992 | CAA | 7 | 15 | 2.77 | 29 | 29 | 0 | 211.0 | 208 | 73 | 65 | 12 | 68 | 130 |
1993 | NYY | 11 | 14 | 4.37 | 32 | 32 | 0 | 214.0 | 221 | 115 | 104 | 22 | 73 | 95 |
1994 | NYY | 9 | 8 | 4.55 | 24 | 24 | 0 | 160.1 | 167 | 88 | 81 | 24 | 64 | 90 |
1995 | CHW | 6 | 4 | 3.36 | 17 | 17 | 0 | 112.1 | 116 | 50 | 42 | 10 | 35 | 45 |
CAA | 5 | 4 | 4.15 | 13 | 13 | 0 | 84.2 | 93 | 43 | 39 | 4 | 29 | 41 | |
1996 | CAA | 2 | 18 | 7.48 | 27 | 23 | 0 | 142.0 | 171 | 35 | 16 | 16 | 12 | 14 |
1998 | CHW | 5 | 0 | 4.55 | 5 | 5 | 0 | 31.2 | 35 | 16 | 16 | 2 | 12 | 14 |
1999 | MIL | 2 | 8 | 6.91 | 20 | 15 | 0 | 82.0 | 110 | 71 | 63 | 14 | 42 | 37 |
通算 | 10年 | 87 | 108 | 4.25 | 263 | 254 | 0 | 1674.0 | 1779 | 880 | 791 | 154 | 620 | 888 |
- 太字はリーグ最多。