コンゴ自由国
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コンゴ自由国はアフリカのザイール川流域にあった国である。(後のコンゴ民主共和国)
[編集] 「建国」の経緯
ベルギー国王レオポルド2世はスタンリーにザイール川流域を探検させる。国王の支援のもとでの探検だったので、その成果は国王に帰属し、国王は1882年に「コンゴ国際協会」に委託支配させ、1885年のベルリン会議ではこの地域は公式に国王の私領地になった。それがコンゴ自由国である。
[編集] コンゴ自由国の状況
国王の私領となったコンゴ自由国では耕作地も全てが国王の所有となり、住民は象牙やゴムの採集を強制させられた。規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が情け容赦なく科され、前代未聞の圧制と搾取が行われていた。コンゴ自由国の自由国とは、住民が自由な国という意味ではなく、国王が自由にできる国という意味である。
[編集] 国際社会の反応と「自由国」の終わり
このコンゴ自由国の圧政に、各国は人道主義の立場から非難の声をあげた。特に英国は領事に実態の調査を行わせている。またジャーナリストのエドモント・モレルが「赤いゴム」という著作で、手足を切り落とす過酷な刑罰の下でのゴム採集の実情を白日のもとにさらけ出した。
ここに来て国際社会の非難の声は益々高まり、国王の恣意的な暴政にベルギー政府も黙っていられなくなった。1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギー政府からの補償金との引き換えにコンゴ自由国を手放すことになった。
同年11月、コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになった。これによって、統治の実情は改善され、強制労働なども廃止となった。