カール・テオドア・ドライヤー
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カール・テオドア・ドライヤー(Carl Theodor Dreyer、1889年2月3日-1968年3月20日)はデンマークの映画監督。「デンマークの国宝」とまで呼ばれた世界映画史上の巨匠の一人である。特に『裁かるゝジャンヌ』『吸血鬼』などは名作として名高い。
[編集] 映画監督としてデビューするまで
父はスウェーデン出身在住のデンマーク人、母はスウェーデン人であったが、母親は未婚でありしかも父親が認知しなかったために、生まれた子供をドライヤーという名のデンマーク人の養子にした。1890年彼女は再び身ごもったが、やはり未婚であったため、今度は自ら堕胎しようとして燐を飲んだが、この中毒によってまもなく死亡した。彼は自分の母親の顔も、実の父親の顔も知らず、コペンハーゲンのドライヤー家で育てられる。彼の作品に比較的多くの女性の受難が描かれているのはこのためである、という説もある。
この家で彼は愛情を持って育てられた訳ではなかった。彼は早くからこの家を出たかった。この家の娘が音楽家と結婚していたため、ピアノのレッスンは無料で受けることができた。彼が住んでいる家の冷たい雰囲気のなかで、音楽は精神的に逃避することが出来る場所であった。彼のピアノの腕前が上達したのを認めた親は、彼がこれによってお金を稼ぐように求めた。しかしやっと得たピアニストのとしての仕事は、カフェで客を喜ばせるような類の曲で、彼の思っていたような芸術的な仕事とは程遠かった。
優秀な成績で学校を終えた彼は、その成績の故にいくつかの仕事を容易に見つけることができた。遠い外国への憧れから、彼はまず電信会社に就職した。しかし海外に行けるものだと思っていたにもかかわらず、彼は経理の仕事を命じられてしまう。給料はとてもよかったが、この仕事を一生涯続けることに恐れをなした彼は、まもなく電信会社を辞めてしまう。その後地方紙に演劇評を書き始め、さらにコペンハーゲンの新聞にも文学・芸術を中心とした様々な記事を書く仕事を得る。しかし、ジャーナリストの仕事にとどまらずに、彼は気球パイロットの訓練を受け、合計13回の気球飛行を行った。このため、ある時期ドライヤーはジャーナリストというより飛行家として知られるようになった。 1912年、ドライヤーは日刊紙エクストラプラゼツのコラムニストとして「トム伯父さん」のペンネームで数多くのウィットに富んだ文章を次々載せて、これが大変な評判になった。ちょうどその頃彼は新聞社の仕事で映画監督にインタビューする機会を得て、映画に関心を持つようになる。彼はセンセーショナルな映画を数多く作って人気のあったSRH社(すぐにダンマーク社と改名)のためにいくつかの脚本を書き、また気球パイロット役で俳優として映画出演まで成し遂げた。
SRH社でのドライヤーの仕事に注目したデンマーク最大の映画会社ノーディスク社は1913年脚本作家・字幕作家としてドライヤーを雇い入れた。さらに、彼に映画編集の仕事を任せるようになり、そのおかげでドライヤーは映画製作の芸術的側面を多角的に知ることが出来た。そして、映画製作の芸術的責任は監督にあることもこれらの仕事を通して自覚するようになった。
彼の有能ぶりは会社で群を抜いていたため、映画監督に転身する夢はあっさり叶った。
[編集] 映画監督としての活躍
1918-19年、オーストリアの作家によって書かれた通俗小説の『裁判長』で映画監督デビューを果たす。続く1919年-21年「サタンの書の数ページ」で見せた連続したクローズ・アップによって登場人物の声や心理を描いた彼独自の手法を先取りしている。彼は、ドイツ表現主義やフランスのアヴァンギャルド(前衛主義)、米国のD・W・グリフィスらの影響を受けながら、1920年代前半にはデンマーク映画を世界屈指の芸術水準へと押し上げるが、第1次世界大戦の影響などにより同国映画の衰退によりデンマークを離れてヨーロッパ諸国で製作する羽目に陥る。
その間にフランスでは映画史上屈指の傑作の誉れ高い『裁かるゝジャンヌ』(1928)を撮り、またベルギーでは彼にとって初のトーキー映画になる古典的傑作『吸血鬼』(1930ー31)を発表。その後、デンマークへ戻りしばらく映画界を離れるが、第2次世界大戦後に復帰し、ベネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得した『奇跡』(1954)などを残している。
前衛性とリアリズムが渾然一体になっている彼の作品は、現在見直しても一向に色褪せていない。
[編集] 主な監督作品
- 裁判長 -Præsidenten(1918、デンマーク)
- サタンの書の数ページ -Blade af Satans bog (1919、デンマーク)
- 牧師の未亡人 -Prästänkan (1920、スウェーデン・ノルウェー)
- 不運な人々 - Die Gezeichneten(1921、ドイツ)
- むかしむかし -Der var engang(1922、デンマーク)
- ミカエル -Mikaël(1924、ドイツ)
- あるじ -Du skal ære din hustru(1925、デンマーク)
- グロムダールの花嫁 -Glomdalsbruden(1925、ノルウェー・スウェーデン)
- 裁かるるジャンヌ - La Passion de Jeanne d'Arc(1927、フランス)
- 吸血鬼 -Vampyr - Der Traum des Allan Grey(1930、ベルギー)
- 怒りの日 -Vredens dag(1943、デンマーク)
- 二人の人間 -Två människor(1944、スウェーデン)
- 奇跡 -Ordet (1954、デンマーク)
- ゲアトルーズ -Gertrud(「ゲアトルード」「ガートルード」とも、1964、デンマーク)
カテゴリ: デンマークの映画監督 | 1889年生 | 1968年没