カーゾン線
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カーゾン線(カーゾンせん)とは、イギリスの外務大臣カーゾン卿によって提唱された線で、ポーランドとソビエト・ロシアの境界とする線のことである。1919年に提唱された時点においては、ポーランド・ソ連戦争のこともあって関係国に受け入れられなかったが、第二次世界大戦後のポーランドの東部国境は、ほぼこの線の位置にある。
[編集] 概要
第一次世界大戦後の1919年にイギリスの外務大臣カーゾン卿によって提唱された線で、ポーランドとソビエト・ロシアの境界とする線のことである。提唱された時点においては、ポーランド・ソ連戦争のこともあって関係国に受け入れられなかった。1921年にリガにおいて結ばれたポーランド・ソ連戦争の講和条約では、ポーランドの軍事的勝利もあって、カーゾン線より200km東にポーランドの東部国境が制定された。
しかし、この線はソビエト・ロシアにとって意味を持つようになり、1939年のナチスドイツとソビエト間の秘密協定・モロトフ=リッベントロップ協定では、ポーランドの分割占領線と規定され、同年にポーランドは両国によって、北部を除きほぼこの線で分割占領された。また、ヨシフ・スターリンは、テヘラン会談など連合国との協議においても、この線を境界とする事を主張し、第二次世界大戦後のポーランドの東部国境は、この線の位置にある。
カーゾン線は、第三次ポーランド分割後のプロシアとロシアの境界に近いものであった。A案とB案があり、B案ではリヴィフをポーランド領とする案になっていた。