オーギュスタン=ルイ・コーシー
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オーギュスタン=ルイ・コーシー(Augustin Louis Cauchy, 1789年8月21日 - 1857年5月23日)はフランスの数学者。解析学の分野に対する多大な貢献から「フランスのガウス」と呼ばれることもある。これは両者がともに数学の厳密主義の開始者であった事にも関係する。他に天文学、光学、流体力学などへの貢献も多い。パリに生まれたが、直前に起こったフランス革命をさけ小さな村で育てられた。混乱した世相を受けて貧窮した生活を送ったため病身となり、生涯健康に配慮して暮らしたという。十三歳の頃には一家はパリに戻ったが、父がナポレオン政権下で元老院書記の職を得た関係で、サロンの科学者達と親交があった。特にラグランジュはコーシーを「未来の大数学者」と呼んで期待をかけたと伝えられる。
初期の研究では、コーシーは多面体に関するオイラーの定理に最初の証明を与え、また、置換計算を発展させることで群論の誕生に影響を与えた。解析学では、コーシーはそれまでの曖昧さを解消して、厳密な基礎を与えようとした。「厳密性」を目指したコーシーの解析学の講義はその後の解析学の教科書のスタイルの規範となった。彼は極限と無限小の概念を使って現在の連続関数を定義した。だが、コーシーの定義では、連続性と一様連続性を区別することができない、という問題を抱えていたことが明らかになる。数学者としての最大の業績は、いわゆるイプシロン-デルタ論法の原型となるアイデアによって級数の収束概念を形式的に捉えなおしたことであろう。これにより解析学全般の厳密な形式化が進行し、近代数学の基礎が築かれた。複素解析では、複素平面における積分の理論、留数計算など、基本概念の多くを独力で生み出していった。 関連する業績は非常に多く、「コーシーの平均値の定理」、「コーシーの積分定理」、「コーシー・リーマンの関係式」などその名を冠する定理が現在でも解析学の基礎をなしている。
彼の厳密主義は政治的な考えにも通底しており、ルイ・フィリップが「人民の王」を名乗ったときはそれを受け入れず、トリノ、プラハなどで亡命生活を送っている。才能ある三人の若い数学者との関係はうまくいかなかった。ポンスレは射影幾何学の研究をコーシーから批判され、アーベルはルジャンドルの庇護を得ながらもコーシーから評価されることはなかった。他人の介入を嫌うその性格が災いし、論文審査の役目を引き受けながらアーベル、ガロアの論文を紛失するという失態を犯している。両者ともにこの事件が夭逝の遠因となっただけに責任は重大である。研究者と研究組織の関係として、現代にも通じる問題と言える。
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