イングランド国教会
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イングランド国教会(イングランドこっきょうかい、Church of England)は16世紀のイングランドで成立したキリスト教会の名称であり、かつ世界に広がる聖公会(アングリカン・コミュニオン)のうち最初に成立し、その母体となった教会である。イギリス国教会、英国国教会、アングリカン・チャーチ、聖公会とも呼ばれる。もともとはカトリック教会の一部であったが、16世紀のヘンリー8世からエリザベス1世の時代にかけてローマ教皇庁から離れ、独立した教会となった。通常プロテスタントに分類されるが、他のプロテスタント諸派と異なり、教義的な問題でなく政治的な問題からローマ・カトリックから分裂したため、典礼的にはカトリックとの共通点が多い。教会の首長が英国の統治者であるということが最大の特徴である。「聖公会」という名称は、アングリカン・コミュニオン全体の日本語訳であると同時に、イングランド国外におけるイングランド国教会の姉妹教会の名称の日本語訳である。
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[編集] イギリスのキリスト教史
[編集] キリスト教の到来
ブリテン島にキリスト教が初めて到来したのはローマ帝国時代の紀元200年ごろのことであると思われる。以後、キリスト教はウェールズからスコットランド、アイルランドへと根を下ろし、ローマ人の撤退後も残っていた。が、キリスト教の歴史の中では正式なイングランドの宣教はカンタベリーのアウグスティヌスによるものを嚆矢であるとみなしている。彼はグレゴリウス1世教皇の命により、ケントのエセルベルト王のもとへと派遣された宣教師であった。664年におこなわれたホイットビーの教会会議ではノーザンブリアのオスウィウの指導により、それまで用いられてきたケルト的典礼を廃し、ローマ式典礼を取り入れることを決定したことが大きな意義を持っている。
ヨーロッパの諸国と同様に、イギリスでも中世後期以降、王権と教皇権の争いが顕著となった。論点となったのは教会の保有する資産の問題、聖職者に対する裁判権、聖職叙任権などであった。特にヘンリー2世とジョン王の時代に王と教皇が激しく争った。
[編集] ローマとの分裂
王権と教皇権の争いはあっても、イングランドの教会は中世を通じてローマとの一致を保ち続けていた。イングランド教会とローマの間に最初の決定的な分裂が生じたのはヘンリー8世の時代である。その原因はヘンリー8世の離婚問題がこじれたことにあった。すなわち、キャサリン・オブ・アラゴンを離婚しようとしたヘンリー8世が教皇に結婚の無効を宣言してくれるよう頼んだにもかかわらず、教皇クレメンス7世がこれを却下したことがひきがねとなった。これは単なる離婚問題というより、キャサリンの甥にあたる神聖ローマ帝国のカール5世の思惑などもからんだ複雑な政治問題であった。
ヘンリー8世は1527年に教皇に対してキャサリンとの結婚の無効を認めてくれるように願った。1529年までに繰り返しおこなわれた教皇への働きかけが失敗に終わるとヘンリー8世は態度を変え、さまざまな古代以来の文献をもとに霊的首位権もまた王にあり、教皇の首位権は違法であるという論文をまとめて教皇に送付した。つづけて1531年にはイングランドの聖職者たちに対し、王による裁判権を保留するかわりに、10万ポンドを支払うよう求めた。これはヘンリー8世が聖職者にとっても首長であり、保護者であるということをはっきりと示すものとなった。1531年2月11日、イギリスの聖職者たちはヘンリー8世がイングランド教会の首長であると認める決議をおこなった。しかし、ここにいたってもヘンリー8世は教皇との和解を模索していた。
1532年5月になると、イングランドの聖職者会は自らの法的独立を放棄し、完全に王に従う旨を発表した。1533年には教皇上訴禁止法が制定され、それまで認められていた聖職者の教皇への上訴が禁じられ、カンタベリーとヨークの大主教が教会裁治の権力を保持することになった。ヘンリー8世の言いなりであったトマス・クランマーがカンタベリー大主教の座につくと、先の裁定に従ってクランマーによって王の婚姻無効が認められ、王はアン・ブーリンと再婚した。教皇クレメンス7世がヘンリー8世を破門したことで両者の分裂は決定的となった。ヘンリー8世は1536年に最初の国王至上法を公布してイングランドの教会のトップに君臨した。英国の教会を自由に出来る地位についたことはヘンリー8世が離婚を自由にできるというだけでなく、教会財産を思うままにしたいという誘惑を王に感じさせるものとなった。やがてトマス・クロムウェルのもとで委員会が結成され、修道院が保持していた財産が国家へ移されていった。こうしてイギリスの修道院は破壊され、荒廃した。
[編集] プロテスタント運動との関係
ローマと袂をわかったとはいえ、イングランド教会は決してプロテスタントではなかった。ヘンリー8世はもともとプロテスタントを攻撃する論文を発表して教皇レオ10世から「信仰の擁護者」という称号を与えられており、それを誇っていた。ヘンリー8世がローマから分かれたことで、大陸のプロテスタント運動がどっとイングランドに流入し、聖像破壊、巡礼地の撤廃、聖人暦の廃止などをおこなった。しかし、ヘンリー8世自身は信条としてカトリックそのものであり、1539年のイングランド教会の六か条においてイングランド教会がカトリック教会的な性質を持ち続けることを宣言している。と、同時に教会分裂がおきれば宗教改革運動のうねりが到来することは不可避であることを意味している。
変革を嫌った父ヘンリー8世と違っていた息子エドワード6世のもとで、イングランド教会は最初の変革がおこなわれた。それは典礼・祈祷書の翻訳であり、プロテスタント的な信仰の確立が目指された。こうして国家事業として出版されたのが1549年の『英国国教会祈祷書』であり、1552年に最初の改訂がおこなわれた。
[編集] 分裂反動と「中道」(Via Media)
エドワード6世の死後、キャサリンの娘メアリー1世が王位に付いた。メアリーは熱心なカトリック教徒であった。彼女はヘンリー8世とエドワード6世時代におこなわれた典礼の改革をすべて廃し、ふたたびイングランドをカトリックに戻そうとした。彼女はこれに反対する者への徹底的な弾圧や処刑すら辞さなかったため「ブラッディ・メアリー」(血染めのメアリー)と呼ばれることで知られる。しかし、この復帰運動も過激すぎたため、メアリー1世の死後、カトリックへの強制的な復帰運動は消えた。
真の意味での英国国教会のスタートは1558年に早世したメアリー1世の後を継承したエリザベス1世のもとできられることになる。エリザベスは教皇の影響力がイギリスにおよぶことを阻止しようとしてはいたが、ローマからの完全な分離までは望んでいなかった。神聖ローマ皇帝カール5世が彼女をかばったこともあって、エリザベス1世は1570年、ピウス5世の時代まで破門されることはなかった。
英国国教会が正式にローマから分かれることになるのは1559年である。議会はエリザベス女王を首長として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。エリザベス1世の選んだ道は「中道」(Via Media)とよばれるもので、イングランドに混在するプロテスタントとカトリックがお互いを否定し排除することなく、共存できる道を選んだ現実的な政策であった。さらに女王は1563年の聖職者会議で「英国教会の39箇条」を制定し、イングランド国内の国教会を強化した。
このころから、イングランドにおける清教徒(ピューリタン)と国教会派の対立が深刻化した。1603年に即位したジェームズ1世は強く国教会派を支持、また王権神授説を唱えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で欽定訳聖書の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。チャールズ1世の治世では国教会派をスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって清教徒革命が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑された。
しかしその後、王政復古や名誉革命を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。
イングランド国教会主流派と対立した人々のなかには、国教会内部で改革を行おうとする非分離派もいたが、国教会から出て別の教会を立てるものも多かった。後者を分離派と呼ぶ。このような国教会から出たプロテスタント会派に、バプティスト・メソジストなどがある。
1720年代頃から始まる聖公会司祭ジョン・ウェスレーらによる英国内のメソジスト運動は、アメリカ独立戦争中、1784年米国でメソジストによる監督会議につながり、25箇条"The Twenty-Five Articles of Religion"(英語サイト)を決議して独立教派となるに至った。
現代のイギリス国教会は、世界の聖公会において主導的役割を果たすとともに、ローマカトリックなどとの対話に積極的にのりだし、エキュメニカル運動にも積極的な役割を果たしている。
最近では1994年3月12日にイングランド国教会で最初の女性司祭が叙階され話題となった。
[編集] 関連項目
- 世界の聖公会の各組織は、アングリカン・コミュニオン参照。
- 聖者の一覧
- ベーダ・ヴェネラビリス
- オックスフォード運動
- スコットランド国教会
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