ピウス5世 (ローマ教皇)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピウス5世(Pius V,1504年1月17日 - 1572年5月1日)はローマ教皇(在位,1566年 - 1572年)。本名アントニオ・ギスリエーリ(Antonio Ghislieri)。異端審問の世界で活躍した後、教皇として異端とプロテスタントとへの対抗に力に入れ、カトリック改革を推進した。カトリック教会の聖人。
[編集] 生い立ち
アントニオ・ギスリエーリはミラノに近いボスコ村(現在のボスコ・マレンゴ)生まれた。14歳にしてドミニコ会に入会し、ヴォゲーラ、ヴィジェヴァーノ、ボローニャなど各地の修道院で過ごした。1528年にジェノヴァで司祭に叙階されるとパヴィアに移り、16年間そこで教鞭をとった。彼はそこで教皇の権威の意味を再確認し、異端を弾劾する13か条の提言をまとめる中で自らの思想を明らかにしていった。院長としてアントニオは規律ある人物として有名であったが、自ら望んでコモの異端審問所へ赴いた。そこでの熱心な活動によって周囲の反発を招いたため、1550年にはローマへ戻り、異端審問の仕事に関わったあとで、教皇庁の食料管理の仕事についた。そこで後に教皇パウルス4世となるカラファ枢機卿に目をかけられ、ストリやネーピの司教職、アレッサンドリーノの名義枢機卿、異端審問所長官というポストを得た。ピウス4世の元で、モンドヴィ(ピエモンテ)の司教に選ばれるが、これに反対したため、ローマの退去と異端審問官の職業権限の縮小を申し渡された。
[編集] 教皇として
彼が任地へ向かう前にピウス4世は死去し、1566年1月7日の教皇選挙はアントニオ・ギスレーリを新教皇に選出した。10日後の彼の誕生日に教皇としての戴冠式が行われた。ピウス5世を名乗った教皇は、抜本的な改革案を次々に実行に移してローマの風紀刷新に乗り出した。それは教皇宮廷の経費削減、宿屋の規制、娼婦の追放、儀式の尊重などである。教皇は広い視野をもって、トリエント公会議の決議の推進と教会法の実施の徹底を各国で推し進めた。
教皇はドイツ諸侯との争いに危機感を覚えていたが、特にアウグスブルクの帝国議会(1566年3月26日)における論争に教皇権の危機を察知し、その影響力を制限しようと企てた。一方、フランスでは教皇の影響力はより大きなものであった。教皇の指図によってオデット枢機卿と7人の司教が解任され、プロテスタントに対して寛容な勅令が廃棄された。結果としてこのフランスにおける教皇権威の行使がサン・バルテルミの虐殺を引き起こす一因ともなる。
ピウス5世の手による回勅の中で最も有名なものが、1568年の「イン・コエナ・ドミニ」であるが、それ以外の教公文書や教皇令にこそ彼の人となりをうかがわせるものがある。たとえば、教皇への上訴の禁止(1567年2月および1570年1月)、ルーヴァン大学の教授で論議を呼んでいたミシェル・バイウスの弾劾(1570年)、聖務日課の改訂(1568年7月)、ローマとアンコーナ以外の教皇領からのユダヤ人の追放(1569年)、新ミサ典書使用の徹底命令(1570年7月)、異端審問所からの十字軍将兵の保護(1570年10月)、聖母懐胎についての議論の禁止(1570年11月)、不正な経理の噂があった組織である謙遜兄弟団(Fratres Humiliati)への制限強化(1571年2月)、聖務日課の共唱の徹底(1571年9月)、全免償の提供と引き換えによる対オスマン帝国戦への財務援助(1572年3月)などである。
また、イギリスのエリザベス1世に対しては、政敵のメアリーの擁護をうたった回勅『エクス・トゥルピッシマ・ムリエブリス・リビディニス・セルヴィトゥーテ』を発布するだけでなく、露骨に敵意を示しており、1570年4月27日の回勅『レグナンス・イン・エクスチェルシス』で破門し、家臣の忠誠の誓いをといている。しかし、この回勅は同時代において何ら現実的な意味を持つものではなく、歴史上、教皇による世俗王侯への最後の破門となった。
ピウス5世は当時勃興しつつあったオスマン帝国に対してヨーロッパ大同盟を結成させることに成功し、結果的に1571年10月7日のレパントの海戦でのコロンナ(Marcantonio Colonna)の指揮によるヨーロッパ連合艦隊の勝利につながった。また、トリエント公会議の方針に沿って国際的な司教会議を行わせている。それはアルフォンソ・カラファ枢機卿(教皇は審議の後でカラファ一族を復権していた。)の元で行われたナポリ会議、カルロ・ボロメオの元で行われたミラノ会議、そしてマキム会議の3つである。