イタリアのハロルド
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『イタリアのハロルド』 (Harold en Italie) Op.16は、ルイ・エクトル・ベルリオーズによって書かれた、4部からなるヴィオラ独奏付き交響曲である。
目次 |
[編集] 作曲の経緯
以下に書かれている経緯はベルリオーズ自身が『回想録』に記した内容に基づいているが、今日ではその信憑性に疑問が持たれている。
1833年12月22日、パリで幻想交響曲(1830年初演)を聴いて感動したニッコロ・パガニーニは、ベルリオーズに、ヴィオラと管弦楽のための作品を書くよう依頼する。パガニーニは名器ストラディバリウスのヴィオラを手に入れていたが、めぼしいヴィオラの曲がないため、ベルリオーズにヴィオラ協奏曲の作曲を依頼したのである。当時パガニーニは、ヴァイオリンのヴィオルトゥオーゾとしてヨーロッパ中を熱狂させており、作曲を依頼されたベルリオーズは、大喜びで仕事を引き受ける。
しかし1楽章のスケッチができたあたりで進行状況を見に来たパガニーニは、独奏ヴィオラパートが、自分の名人芸を披露するには物足りないとしてがっかりしてしまう。パガニーニが満足するような曲はとても書けないとあきらめたベルリオーズはパガニーニに「あなたが満足いくような曲はあなたにしか書けない」と言い、この話はご破算になってしまった。
一方ベルリオーズは、せっかく途中まで進めたこの曲を、パガニーニの意図からは離れ、独奏ヴィオラをともなった交響曲というユニークな編成で、最期まで完成させることにする。このような経緯で、この「イタリアのハロルド」は、1楽章はまだヴィオラ曲としては立派であるが、楽章が進むにつれ独奏ヴィオラの出番はなくなってゆき、一方交響曲としては盛り上がっていくという協奏曲とも交響曲とも言えないような曲になっている。
なおベルリオーズが作曲した数少ないヴァイオリン独奏曲に「夢とカプリス」があるが、あまり演奏されない。ベルリオーズの本領はやはり大管弦楽や合唱団を壮大に鳴り響かせるところにあったのである。
[編集] 編成
- フルート:2(持ち替えでピッコロ:1)
- オーボエ:2(持ち替えでコーラングレ:1)
- クラリネット:2
- ファゴット:4
- ホルン:4
- コルネット:2
- トランペット:2
- トロンボーン:3
- オフィクレイド:1(現在ではテューバで演奏する)
- ティンパニ:奏者1
- 小太鼓:2
- シンバル:1
- トライアングル:1
- ハープ:1
- 独奏ヴィオラ
- 弦五部
[編集] 構成
構想はジョージ・ゴードン・バイロンの長編詩「チャイルド・ハロルドの巡礼」の場面に着想を得ている。第1楽章で独奏ヴィオラが提示する「ハロルドの主題」は、「幻想交響曲」における「恋人の動機(固定観念)」のように、全曲に形を変えて登場する。物語の舞台には、ベルリオーズがイタリアにいたときに訪れたアブルッチ地方が選ばれている。
- 第1楽章「山におけるハロルド、憂愁、幸福と歓喜の場面」
- ゆっくりした序奏と、ソナタ形式による活気あるアレグロ主部からなる。ハロルドのメランコリックでもあり快活な複雑な気分が表される。
- 第2楽章「夕べの祈祷を歌う巡礼の行列」
- ハロルドはたそがれ時、巡礼の一行が山の小さな教会で讃歌を歌い、通り過ぎていくのを眺めている。
- 第3楽章「アブルッチの山人が、その愛人によせるセレナード」
- 舞曲的な性格の楽章。毎年クリスマスの頃、アルブッチの山中からローマにやってくる牧童が吹奏する民謡を転用している。
- 第4楽章「山賊の共演、前後の追想」
- 山賊の乱痴気騒ぎの合間に前3つの楽章の主題が回想される。やがて、ハロルドは山賊の手にかかって命を落とす。最期は山賊の主題が荒れ狂ってフィナーレとなる。独奏ヴィオラはもうほとんど登場しなくなってしまう。
[編集] 演奏
先にも触れたように、協奏曲とも交響曲とも言えないような曲ゆえ一般的な評価はあまり得られず、また、ヴィオラ自体がある時期まで存在感のなかった楽器だったため、20世紀に入ってもこの曲の演奏機会は稀であった。初録音は1944年にウィリアム・プリムローズのヴィオラ、セルゲイ・クーセヴィツキーの指揮、ボストン交響楽団の演奏で行われた。プリムローズはこの曲の演奏が珍しかったこの時代、アルトゥーロ・トスカニーニにこの曲を完璧に手の内に入れておくよう言われ、それ以降、この曲の演奏の初期のスペシャリストとして活躍した。トスカニーニ自身も、1929年から1953年の間に5回もコンサートで取り上げている(うち2回がプリムローズとの演奏)。