セルゲイ・クーセヴィツキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
セルゲイ・クセヴィツキー(Serge Koussevitzky、実名はSergei Aleksandrovich Koussevitzky、 1874年7月26日 - 1951年6月4日)はアメリカ合衆国で活躍したユダヤ系ロシア人指揮者。
日本ではクーセヴィツキーとしてむしろ有名。1924年から1949年まで、ボストン交響楽団の実質的な終身常任指揮者を務め、就任期間の記録的な長さを誇っている。
モスクワで音楽を学んだ後、名コントラバス奏者として活動を始める。1902年には<コントラバス協奏曲 嬰ヘ短調>作品3を作曲。1908年にベルリンで指揮者デビューを果たし、翌年には自前のオーケストラを創設。この間にロシア正教に改宗して富裕なロシア人女性ナターリヤと結婚し、夫人の援助によって楽譜出版社を設立、スクリャービンやラフマニノフ、メトネル、ストラヴィンスキーなどの作曲家の版権を得るなど、ロシア革命まで自由な音楽活動を謳歌した。
1920年にソヴィエト連邦を嫌ってパリに脱出、1924年にボストン交響楽団常任指揮者に任命され、アメリカに移住(1941年にアメリカ合衆国市民権を取得)。それから24年にわたって、ボストン交響楽団を、単にアメリカ合衆国の一流オーケストラとしてだけではなく、世界的水準を持ったオーケストラに育て上げ、同楽団はアメリカ五大オーケストラの一つに数えられるようになる。サマー・コンサートやタングルウッド音楽祭における教育プログラムも、クセヴィツキーの発案による。録音も数多く残しており、しばしばCDにも復刻されている。録音のほとんどは評論家から好意をもって迎えられてきた。クセヴィツキーの著名な門人にレナード・バーンスタインがいる。
クセヴィツキーは、それまでドイツ音楽偏重で、しかも、どちらかといえば保守的な趣味に偏りがちだったボストンの聴衆に、スラヴ系やフランスの音楽を本格的・積極的に紹介した。
クセヴィツキーは、同時代の音楽の偉大な擁護者であり、いち早くロシア時代にスクリャービン後期の前衛的な作品を出版・上演するほど徹底していた。クセヴィツキーによる依嘱作品の初期の例に、ストラヴィンスキーの<詩篇交響曲>(ボストン交響楽団創立50周年記念作品)や、ラヴェルによる<展覧会の絵>の編曲がある。
1942年にナターリヤ夫人とともに、クセヴィツキー財団を設立し、多くの作曲家に新作を依嘱。これによって、バルトークの<管弦楽のための協奏曲>、ブリテンの歌劇<ピーター・グライムズ>、アーロン・コープランドの<交響曲 第3番>、メシアンの<トゥランガリーラ交響曲>が作曲された。
作曲家としては、協奏曲のほかに、コントラバスのソロとピアノのためのアンコール・ピースを4曲残したにすぎない。
・Andante Op.1, No.1 アンダンテ
・Valse Miniature Op.1, No.2 小さなワルツ
・Chanson Triste Op.2 悲しみの歌
・Humoresque Op.4 ユモレスク
いずれも愛らしく親しみやすい、ロマン派音楽の伝統にしたがっている。協奏曲については、楽曲構成やオーケストレーションにグリエールなど友人作曲家の手を借りたとされており、一説クセヴィツキーはメロディ・ラインを書いたにすぎないとも言われる。 なお、これらの曲のコントラバス・ソロに要求される演奏技巧は、協奏曲の一部を除けば特別に至難であるというものではないとされる。
クセヴィツキーの遺産であるアマティのコントラバスは、現在ゲイリー・カーの愛器となっている。また、クセヴィツキーの遺品としてカフスボタンがバーンスタインに贈られたが、彼は生涯にわたり、指揮台に出る前にこのカフスボタンにキスする習慣を持っていた。