アレクセイ・コスイギン
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アレクセイ・ニコラエビッチ・コスイギン(Алексей Николаевич Косыгин、Aleksei Nikolaevich Kosygin、1904年2月21日 - 1980年12月18日)は、ソビエト連邦の政治家。1964年から1980年までソ連首相を務めた。
[編集] 経歴
1904年2月21日サンクト・ペテルブルグの労働者の家庭に生まれる。ロシア革命に遭遇し、1919年に赤軍に志願する。シベリアで消費協同組合関連の仕事に従事したのち、1927年にソ連共産党に入党する。レニングラードの織物専門学校を卒業後、市織物工場職長、工場長として勤務中、大粛清に遭遇。1938年から1939年レニングラード市長となる。
1939年から1940年織物工業人民委員(人民委員は大臣に相当)を務め、以後、軽工業を中心に主に経済関係のポストを歩む。1939年にソ連共産党中央委員に選出される。1943年から1946年まで、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民委員会議長(首相)を務める。ロシア連邦共和国首相としては、ナチス・ドイツの侵攻に対して、ヨーロッパ・ロシアの企業・工場をウラル山脈以東に疎開させることに尽力した。
第二次世界大戦終結後は、1946年から1953年までソ連邦副首相、1948年から党政治局員、軽工業相に任命される。スターリンの死後、1956年ゴスプラン(国家計画委員会)第一副議長、1957年副首相、1957年ゴスプラン議長を歴任。1960年には、第一副首相に就任した。
1964年宮廷クーデターともいえる手段でニキータ・フルシチョフが失脚するがこれに伴い、同年10月後任のソ連首相に就任した。ソ連共産党中央委員会第一書記(のちに書記長)に就任したレオニード・ブレジネフ、最高会議幹部会議長のニコライ・ポドゴルヌイと「トロイカ」と言われる集団指導体制を組む。西側からは、当初、「ブレジネフ・コスイギン政権」と表現されていた。
1965年9月には、「コスイギン改革」とよばれる、計画・管理面における企業分権化を図る経済改革を推進するが、1960年代末までに改革は頓挫し、ソ連経済は停滞する。コスイギンは主に経済を中心とする内政を担当したが、1960年代後半から、外交面でもデタントの波に乗って、リンドン・ジョンソン・アメリカ大統領やウィルソン・イギリス首相ら西側首脳とも積極的に会談を行い、西側陣営との平和的共存を模索した。また、1966年には、インド・パキスタン両国を調停し、第二次印パ戦争の解決に尽力した。1969年には、周恩来中国首相と会談。中ソ両国の関係改善を話し合った。 1980年10月、病気により首相を辞任。後任にはニコライ・チーホノフが就任した。同年12月18日死去。遺体は、慣例に従い他のソビエト指導者と同様、モスクワの「赤の広場」に埋葬された。
[編集] 関連項目
- ソ連閣僚会議議長(首相)
- 1964年 - 1980年
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- 先代:
- ニキータ・フルシチョフ
- 次代:
- ニコライ・チーホノフ
カテゴリ: ソビエト連邦の政治家 | 1904年生 | 1980年没