アルフレッド・ヒッチコック
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サー・アルフレッド・ジョウゼフ・ヒッチコック(Sir Alfred Joseph Hitchcock, 1899年8月13日-1980年4月29日)は、イギリスの映画監督。1939年からはおもにアメリカで活躍した。スリラー映画で成功し、製作・脚本・編集・美術も手がけた。サスペンスの神様とも称される。
ナチス・ドイツ台頭時代を含むイギリス時代には、数々のナチスがモデルと思しきスパイの暗躍サスペンスを描き、『バルカン超特急』では、降伏する平和主義者が撃ち殺されるなど、当時の対独宥和主義イギリスでは過激な描写も見受けられる。
全盛期でもそれほど評価の高くはなかった彼に光を当てたのはフランスの若い評論家たちである。ヒッチコックは「ヌーヴェルヴァーグの神様」と呼ばれ、クロード・シャブロルやゴダールらに崇拝され、なかでもフランソワ・トリュフォーはロングインタビューを敢行し、『映画術』のタイトルで出版した。
ヒッチコックの評価があまり高まらなかったのは、エンターテインメントの要素が高く、芸術性が稀薄だ、と思われたからである。しかし映画的に見れば、非常に高度な映画技術を有しており、際立った映画監督と言える。(この点では黒澤明に似ているかもしれない。)
自分の作品のどこかにほんの一瞬だけ必ず姿を出す(後姿やシルエットだけのこともある)ことにしている。そのせいでファンは、作品がどんなにスリリングで、手に汗握るものであれ、監督がいつ画面に登場するかを心待ちにするという稀有な楽しみを与えられた。
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[編集] 生い立ち
アルフレッド・ヒッチコックは1899年8月13日にロンドンのレイトンストーンで生まれた、青物商のウィリアム・ヒッチコックと妻のエマ・ジェーン・ヒッチコック(旧姓ウェーラン)の三人の子供の二番目であった。一家はアイルランドのカトリック教徒であった(イギリスでは少数派)。ヒッチコックはロンドンでカトリックの寄宿学校に入学し、彼は後に幼年期は孤独であったと語った。
ヒッチコックが14歳の時に父親が死亡し、彼は工学を学ぶためセント・イグナチウス・カレッジを去った。学校を卒業した彼はケーブル会社の広告デザイナーとなった。
その当時彼は写真技術に興味を持ち、ロンドンの映画会社で働き始める。1920年に彼はイズリントン・スタジオで仕事を得、サイレント映画のタイトルデザインを担当した。1925年にはゲインズボロー・ピクチャーのマイケル・バルコンが彼に処女作の『快楽の園』を監督するチャンスを与えた。
[編集] イギリスで
多数の才能が多くの機会を得る中、ヒッチコックは急速に台頭した。彼の三作目『下宿人』は1927年に公開された。同作は「切り裂きジャック」をモデルにした作品で、アパートにやってきた新しい下宿人(アイヴァー・ノヴェロ)が殺人犯に疑われる。これが最初の「間違われる男」をテーマとした「ヒッチカニアン」フィルムであった。
1926年にヒッチコックはアシスタント・ディレクターのアルマ・レヴィールと結婚した。二人の間には1928年に娘のパトリシアが生まれる。アルマはヒッチコックの最も親密な協力者であった。彼女は何本かの脚本を執筆し、ヒッチコックの全ての作品の擁護者であった。
1929年にヒッチコックは十作目の『ゆすり』の制作を始める。撮影中に製作会社は同作をイギリス最初のトーキー映画にすることを決定した。
1933年には再び、ゴーモント=ブリティッシュ・ピクチャーに移籍していたマイケル・バルコンと共に働く。同社での彼の初の作品は『暗殺者の家』であり、続いて『三十九夜』を制作する。同作は初期の代表作と見なされる。
彼の次の成功作は1938年の『バルカン超特急』である。軽快なテンポで展開する同作は、ナチス・ドイツを模した架空の国家ヴァンドリカでの列車内で姿を消した老婦人の行方を捜すという内容であった。
ヒッチコックの活躍はハリウッドから注目され、デヴィッド・O・セルズニックの依頼で彼はアメリカで映画製作を行うこととなる。
[編集] ハリウッド
1940年にヒッチコックはアメリカでの初作品『レベッカ』を制作する。同作の企画はイギリスで行われ、原作もイギリスの作家ダブネ・デュ・モウリアによるものであった。作品はジョーン・フォンティン演じるヒロインが後妻として入ったイギリスの屋敷での出来事を描くサスペンスで、1940年のアカデミー最優秀作品賞を受賞した。
ヒッチコックのユーモアはアメリカにおけるその作品群でも表され、作風にはトレードマークとなったサスペンスが加えられた。セルズニックは長年の金銭問題に悩まされ、しばしばより大きな映画会社にヒッチコックを貸し出した。
彼の1940年代の作品は非常に多様であった。それはロマンチック・コメディの『スミス夫妻』(1941)から暗いサスペンスの『疑惑の影』(1943)まで多種に及ぶ。
1950年代は、ヒッチコックの黄金時代と言える。さまざまな円熟期の作品が量産された。
『鳥』(1963)までは精彩を放っていたが、『マー二ー』(1964)以降は凡庸な作品が目立つようになった。これは『マー二ー』の撮影中にティッピー・ヘドレンに関係を迫ったものの断られたことが原因ではないかといわれている。あるいは、『ハリーの災難』以来バーナード・ハーマンが音楽を担当してきたが、『引き裂かれたカーテン』の音楽を巡って対立し、結果ハーマンをこの作品から降板させ、以後は袂を分かっていたことも影響しているのではないかともいわれる。しかしながら、年齢(65歳以上)を考えれば、衰えは当然だとも言えよう。普通ならばとっくに定年退職している年齢である。
1976年の『ファミリー・プロット』は彼の遺作となった。バーバラ・ハリス演じるインチキ霊媒師と、ブルース・ダーン演じる彼女の恋人であるタクシードライバーが、犯罪に巻き込まれるという内容であった。
監督業への意欲は一向に衰えず、記者会見で「引退はいつですか?」と聞かれると「上映終了後」と答えたと言う。逆にそうした創作意欲が、弱って行く一方の自分の肉体に対して自暴自棄な気持ちになり、付き添いの看護士の目を盗んでコニャックをガブ飲みした事もあったという。
ヒッチコックは1980年1月3日にエリザベス2世よりナイトの称号を授けられた。ちょうどその4ヶ月後に彼は腎不全を起こし、ロサンゼルスで死去した。彼は火葬に付された。
[編集] 主な作品
- 『快楽の園』 - The Pleasure Garden (1925) デビュー作
- 『山鷲』 - The Mountain Eagle (1926)
- 『ゆすり』 - Blackmail (1929) 最初のトーキー作品
- 『暗殺者の家』- The Man Who Knew Too Much (1934)
- 『三十九夜』- The 39 Steps (1935)
- 『間諜最後の日』- The Secret Agent (1936)
- 『第3逃亡者』-Young and Innocent (1937)
- 『バルカン超特急』- The Lady Vanishes (1938)
- 『岩窟の野獣』- Jamaica Inn (1939)
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- 以上イギリス時代
- 『レベッカ』 - Rebecca (1940) アカデミー作品賞
- 『海外特派員』- Forreign Correspondent (1940)
- 『スミス夫妻』- Mr. and Mrs. Smith (1941)
- 『断崖』- Suspicion (1941)
- 『逃走迷路』- Saboteur (1942)
- 『疑惑の影』- Shadow of a Doubt (1943)
- 『救命艇』 - Lifeboat (1943)
- 『闇の逃避行』 - Bon Boyage (1944)
- 『マダガスカルの冒険』 - Aventure Malgache (1944)
- 『白い恐怖』- Spellbound (1945)
- 『汚名』- Notorious (1946)
- 『パラダイン夫人の恋』- The Paradine Case (1947)
- 『ロープ』- Rope (1948)
- 『山羊座のもとに』 - Under Capricorn (1949)
- 『舞台恐怖症』 - Stage Fright (1950)
- 『見知らぬ乗客』 - Strangers on a Train (1951)
- 『ダイヤルMを廻せ!』 - Dial M for Murder (1954)
- 『裏窓』 - Rear Window (1954)
- 『泥棒成金』- To Catch a Thief (1955)
- 『ハリーの災難』- The Trouble With Harry (1955)
- 『知りすぎていた男』- The Man Who Knew Too Much (1956) 『暗殺者の家』のリメイク
- 『間違えられた男』- The Wrong Man (1956)
- 『めまい』 - Vertigo (1958)
- 『北北西に進路を取れ』 - North by Northwest (1959)
- 『サイコ』 - Psycho (1960)
- 『鳥』 - The Birds (1963)
- 『マーニー』 - Marnie (1964)
- 『引き裂かれたカーテン』 - Torn Curtain (1966)
- 『トパーズ』 - Topaz (1969)
- 『フレンジー』 - Frenzy (1972)
- 『ファミリー・プロット』 - Family Plot (1976)
[編集] テレビ番組
- ヒッチコックは1955年から1962年にアメリカで『ヒッチコック劇場』(原題:Alfred Hitchcock Presents)として放送した際、自らMC役を買って出て、番組内の冒頭と終わりにユーモアを交えて解説を行った。この解説部分は1985年-1987年に日本のテレビ東京で放映された『ヒッチコック劇場(西暦)』でカラーグラフィック処理で放送され、ヒッチコックの吹き替えを熊倉一雄が行った。
[編集] 参考文献
- 『定本 映画術―ヒッチコック・トリュフォー』(晶文社)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- The Internet Movie Database:Alfred Hitchcock
- allcinema Onlne:アルフレッド・ヒチコック
- Classic Trailers
- Hitchcock.tv
- Leytonstone Underground Station: Hitchcock Mosaic
カテゴリ: イギリスの映画監督 | アメリカ合衆国の映画監督 | 1899年生 | 1980年没