ABCD包囲網
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ABCD包囲網(ABCDほういもう)とは、1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に当時の日本が付けた名称。ABCDの部分は制限を行っていたアメリカ (America)、英国 (Britain)、オランダ (Dutch)と、対戦国であった中華民国 (China)の頭文字を並べたものである。ABCD包囲陣とも呼ばれる。 またこれに関しては、中華民国を外しオーストラリア(Australia)を加えたABDA包囲網[要出典]としているものもある。
経過
1941年、第二次世界大戦中の西太平洋地域における戦争、太平洋戦争と呼ばれる戦争の開戦以前、日本は1937年から中華民国と日中戦争を行っていた。日本軍が中華民国の占領を進め、また、パネー号事件等の日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が発生するに従い、中華民国の権益に関心があったアメリカでは対日経済制裁論が台頭してきた。そして近衛内閣が1938年に発表した東亜新秩序声明にアメリカは態度を硬化させ、1939年に日米通商航海条約の廃棄を通告した。1940年1月に条約は失効し、アメリカはくず鉄、航空機用燃料などの輸出に制限を加えた。アメリカの輸出制限措置により日本は航空機用燃料(主にオクタン価の高いガソリン)やくず鉄など戦争に必要不可欠な物資が入らなくなった。アメリカの資源に頼って戦争を遂行していたため、その供給停止による経済的圧迫は地下資源に乏しい日本を追い詰めた。
1940年9月、イギリス・アメリカなどが中国国民党政権に物資を補給するルートを遮断するために、日本は仏領インドシナ北部へ進駐した(北部仏印進駐)。さらに同月ドイツとの間で日独防共協定を引き継ぐ日独伊三国軍事同盟を締結した。この同盟によりアメリカは日本を敵国とみなし、北部仏印進駐に対する制裁と、中華民国領への侵出など日本の拡大政策を牽制するために、アメリカはくず鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。その一方で、日本は蘭印と石油などの資源買い付け交渉を行っており、交渉は一時成立したにもかかわらず、その後蘭印の供給量が日本の要求量に不足しているとして、日本は1941年6月に交渉を打ち切った。
1941年7月には、石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するために、日本は仏領インドシナ南部にも進駐した(南部仏印進駐)。これに対する制裁のため、アメリカは対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印は対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、このうちのアメリカの石油輸出全面禁止が深刻となり、日本国内での石油貯蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。
1941年9月、日本は御前会議で戦争の準備をしつつ交渉を続けることを決定し、11月から妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカなどと交渉を続けたが、イギリスや中国の要請(大西洋憲章)により、満州を含む中国大陸からの日本軍の全面撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、(重慶に首都を移した)国民党政府以外の否認などを要求したハル・ノートを提出。日本政府はこれにより、交渉の継続を断念し、対米開戦を決意した。
包囲網の実際
この包囲網は、「欧米各国の日本に対する経済封鎖」といった認識が広まっているが、包囲網とはあくまで日本側からの呼び名であり、連合国側にはそのような意識は無かったとされ、これらの国が何らかの条約を結んだ記録も公表されていない。例えばオランダは、インドシナ進駐後に行われた日本との交渉でも、日本側の要求を受け入れる用意があり、それとは別に石油購入の契約も成立している。つまり、ABCD包囲網は実態としては存在せず、日本の被害妄想と言うこともできる。
また、この言葉自体、マスコミから派生した語呂合わせ的な俗語であり、必ずしも当時置かれた日本の状況を的確に表現しているとは言えないため、この言葉を公の場で使うことを半ばタブー視する声もある。
関連項目
カテゴリ: 編集保護中の記事 | 出典を必要とする記事 | 歴史関連のスタブ項目 | 日本の軍事史 | 日本の貿易の歴史