御前会議
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御前会議(ごぜんかいぎ)とは、天皇が臨席し、国の重要な政策を閣僚・元老と共に決定するために開催される会議の通称である。この御前会議で天皇が決定することは「聖断」として高い権威を持った(転じて、「権力者臨席で行われる会議」の例えに用いられる)。
御前会議は戦争遂行等を決定するときに開かれた。主な例では明治時代の1904年2月4日、日露戦争開戦の可否をめぐって開かれている。変わった所では、京成電鉄が恩賜公園である上野公園の敷地の地下を経由して上野に乗り入れる際にも御前会議が招集された。
[編集] 大東亜戦争(太平洋戦争)と御前会議
昭和時代では、1941年7月2日、独ソ不可侵条約破棄して独ソ戦が開始されたとき、事態対応するための方策として、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定されている。独ソ戦がドイツ有利に戦況が進んだ場合、ソ連に対して開戦すること、「対英米戦準備を整え、対英米戦を辞せず」とし、南部仏印進駐開始を決めた。
同年9月6日、御前会議が開かれて「帝国国策遂行要領」が決議された。これは、「大日本帝国が対米戦争を辞さぬ決意で、10月下旬までに開戦準備を行なう」、「並行して、米英と外交手段を尽くす」、「外交手段が10月上旬までに目処が立たねば、対米開戦決定」というものであった。これに対し、昭和天皇は「この草案は、戦争が主で外交が従ではないか」と非難し、「四方の海、みなはらからと、思う世に、など波風の、立ちさはぐらむ」と、明治天皇が作った和歌を読んだ。しかし、結局のところ「帝国国策遂行要領」は「苦渋の決断」で決議され、12月1日に御前会議が開かれて、対米開戦が決定された。
1945年、ポツダム宣言受諾に対して鈴木貫太郎内閣は受諾か否かで分裂したが、天皇が終戦する聖断を下し、受諾することとなった。現在の日本国憲法下のもとでは、日本の象徴である天皇が御前会議を開き、なんらかの政治決断をする事は不可能とされている。