鴨川 (淀川水系)
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鴨川(京都市内中心部) |
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水系 | 淀川水系 | |||
延長 | 31 km | |||
水源の標高 | 896 m | |||
平均流量 | - m³/s | |||
流域面積 | 210 km² | |||
水源 | 桟敷ヶ岳(京都市北区) | |||
河口 | 桂川(京都市伏見区) | |||
流域 | 京都市 |
目次 |
[編集] 地理
京都市北区の桟敷ヶ岳を源流とする。雲が畑の山中を流れた後、北区上賀茂で京都盆地に出る。上賀茂神社(賀茂別雷神社)、下鴨神社(賀茂御祖神社)脇を南南東に流れ、賀茂大橋手前で高野川と合流する。そこから京都市中央部を真南に流れ、四条大橋付近から南西流に転じ、伏見区下鳥羽で桂川に注ぐ。中京区で西に高瀬川を分け、以南で並行する。
[編集] 表記
正式には源流からすべて鴨川であるが、高野川の合流点より上流は通例賀茂川と表記される。加茂川と表記されることもある。源流から岩屋橋までは祖父谷川、岩屋橋から出合橋までは雲が畑川の名がある。
[編集] 自然
- オオサンショウウオ
- 鴨川上流の雲が畑には、特別天然記念物のオオサンショウウオが棲む。大雨の後などに京都市街まで流されてくることがあり、市民を驚かせる。
- ユリカモメ
- 10月下旬から5月上旬ごろまで、琵琶湖で越冬しながら毎日鴨川まで通って来る。今では冬の風物詩と化しているが、鴨川に姿を見せるようになったのは意外に新しく、1974年のことである。伊勢物語では、都鳥(ユリカモメ)のことを「京には見えぬ鳥」と記している。
- アユ
[編集] 歴史
古代の鴨川流域は賀茂氏の本拠地であった。上賀茂神社、下鴨神社はその氏神を祀る。
平安京においては、都の東限であった。これは、風水の四神相応の思想を反映したものである。賀茂大橋から四条大橋までの一直線の河道はこの時に固定されたと考えられている。
中世には京都市街に隣接する河原が歓楽地となり、多くの芸人が集まるようになった。その中の一人に出雲阿国がいる。
慶長19年(1614年)には角倉了以・素庵父子によって高瀬川が開鑿され、京都と大阪を結ぶ水路として利用された。明治23(1890)年には琵琶湖疎水によって琵琶湖とも結ばれた。20世紀に入ると、鉄道の開通によりこれらの水運は衰退する。
[編集] 治水
古来鴨川は氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた。これは大都市を流れる河川としては勾配が急であることに加え、平安京造営時に北山の木が伐採されたこと、市街地の東への拡大にともない河原が市街地化したことなどが原因である。
824年(天長元年)には治水を担当する防鴨河使(ぼうかし)という官職が設けられたが、洪水はやまなかった。平安末期に権勢をふるった白河法皇は、自らの意に沿わないもの(天下三大不如意)の筆頭に「賀茂の水」を挙げている。豊臣秀吉の築いた御土居の東部は鴨川に沿っており、堤防としての役割を兼ねていた。また1670年(寛文10年)には今出川通から五条通までの区間に寛文新堤が設けられ、御土居との間が新たな市街地として開発された。
1935年(昭和10年)の水害では死傷者83名、三条大橋、五条大橋流失など大きな被害を出した。これを契機に河川改修事業が行なわれ、戦争による中断や一部計画の変更があったものの、1947年(昭和22年)に完成した。これにより河道が掘り下げられた他、落差数十cmの堰を多く持つ現在の姿になった。
[編集] 鴨川と文化
- 納涼床
- 二条大橋から五条大橋にかけての鴨川西岸の料理店では、5月から9月にかけて河原に張り出した木組みの床が設けられる。
- 京友禅
- かつては京友禅を鴨川の流れにさらす「友禅流し」が行なわれていたが、水質悪化などが問題となり1970年代に中止された。
- 鴨川等間隔の法則
- 三条大橋と四条大橋の間の川岸は京都の市街地から近いこともあり、週末の昼下がりには多くの人がたたずむ。カップルやグループの間の空間の広さがほぼ同じぐらいであることから、この現象は鴨川等間隔の法則と呼ばれる。またこの区間で男女カップルがキスをすることを「鴨川でチュー」から「鴨チュー」(かもちゅー)と呼ばれる。(※「鴨川等間隔の法則」及び「鴨チュー」は、近年の若者を中心としたごく一部の人達のみにしか通用しない言葉である。)
三角州。映画「パッチギ!」最後の乱闘シーンのロケ現場 |
賀茂川(今出川通と北大路通の間)左岸の桜 |
[編集] 鴨川歩道橋問題
京都市は1980年代以降、三条大橋と四条大橋の中間に歩行者専用の新たな橋を架けることを計画している。この計画に対しては、予定地の東側では橋ができると街の活性化につながると賛成する意見がある一方で、西側の先斗町では橋ができて通り道になると街の風情が損なわれると反対する意見が多数を占めていた。
1996年、京都を訪問したフランスのシラク大統領(元パリ市長)は、枡本市長との会談でセーヌ川のポンデザール(芸術橋)を模した橋を鴨川に架けることを提案した。1998年が「日本におけるフランス年」にあたり、また京都市とパリ市の友情盟約締結40周年にあたることから、その記念事業としての構想であった。この計画が公表されると、「新たな名所になる」と歓迎する意見がある一方で、「フランス風のデザイン」が景観を損ねるとの批判も起こり、世論は二分された。1997年に行なわれた都市計画案の公告・縦覧では計画に賛成する意見書が反対を上回ったものの、これに対しても計画に反対する市民団体から、「意見書の内容を十分に検討することなく数のみを比較している」と、計画決定の拙速さが批判の対象となった。またフランスのルモンド紙が計画を批判する記事を掲載するなど、京都市外をも巻き込んだ論争となった。
結局1998年に市は芸術橋計画を白紙撤回したが、歩道橋計画そのものについてはなお意欲的である。
[編集] 主な支流
[編集] 分流
- 御手洗川(みたらしがわ)
- 明神川ともいう。北区上賀茂で賀茂川から分かれ、上賀茂神社境内を流れた後、再び賀茂川に合流する。境内では御物忌川、楢の小川とも呼ばれる。この水は葵祭の神事に用いられる。なお下鴨神社境内にも同名の川があるが、こちらの水源は湧水であり、高野川を経て鴨川に注ぐ。
- みそそぎ川
- 加茂大橋下流で鴨川から分かれ、西岸の河川敷(鴨川公園の地下川道:丸太町橋下流で地上へ)を鴨川本流と並行する。二条大橋の下流で高瀬川を分けた後、五条大橋付近で再び鴨川に合流する。夏の納涼床はこの川にまたがる形で設けられる。
- 高瀬川
[編集] 主な橋
岩屋橋 - 出合橋 - 山幸橋 - 高橋 - 庄田橋 - 志久呂橋 - 西賀茂橋 - 御薗橋 - 上賀茂橋 - 北山橋 - 北大路橋 - 出雲路橋 - 葵橋 - 賀茂大橋(今出川通) - 荒神橋 - 丸太町橋 - 二条大橋 - 御池大橋 - 三条大橋 - 四条大橋 - 団栗橋 - 松原橋 - 五条大橋 - 正面橋 - 七条大橋 - 塩小路橋 - (東海道本線鉄橋) - (東海道新幹線鉄橋) - (奈良線鉄橋) - 東山橋(九条通) - 陶化橋(十条通) - 勧進橋(竹田街道) - 水鶏橋 - (近鉄京都線鉄橋) - 竹田橋 - 京都南大橋(油小路通) - 大宮大橋 - 鳥羽大橋(国道1号) - 鴨川橋(名神高速道路) - 小枝橋 - 京川橋
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