角倉了以
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角倉了以(すみのくらりょうい、天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614年8月17日))は、戦国期の京都の豪商。
朱印船貿易の開始とともに、安南国などとの貿易を行った。また幕命により、大堰川、富士川、高瀬川、天竜川等の開削を行った。地元京都では商人と言うより琵琶湖疎水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。
長男に角倉素庵、弟に角倉宗恂。吉田光由は一族にあたる。墓所は京都市嵯峨野の二尊院。
[編集] 家系
角倉家の本姓は「吉田氏」。佐々木氏の分家であるという。もともとは近江国犬上郡吉田村出身とされ、室町時代中期に上洛し室町幕府お抱えの医者としてつとめた。その後、医業で得た財を元に土倉を営むようになる。了以の祖父・吉田宗忠は土倉業は長男に継がせ、次男に医者を継がせた。この次男・吉田宗桂が了以の実父である。
角倉家は茶屋四郎次郎の「茶屋家」、後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」といわれる権勢を誇っていたが、他の2家が徳川家康に接近することで急成長したのに対し、角倉家はその以前より成功していた商人であったところが異なる。
ちなみに「角倉」は運営していた土倉の名前の一つから取られた物である。