鳩山会館
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鳩山会館(はとやまかいかん)は、内閣総理大臣を務めた鳩山一郎の邸宅を公開し、記念館としたものである。東京都文京区音羽に位置しており、戦後政治史の舞台となった場所として知られる。通称「音羽御殿」(おとわごてん)、また鳩山御殿(はとやまごてん)とも。
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[編集] 沿革
1924年(大正13年)、鳩山一郎とその家族の私邸として建設された。設計者は、一郎の友人で当代の代表的建築家、岡田信一郎。
1950年(昭和25年)3月、民主自由党と民主党の大合同により自由党が発足した。このとき一郎が中心人物の1人として動いたことから、彼の私邸が会合の場として度々用いられた。一郎が首相に就任したのちには、ソ連との国交回復に向けた打ち合わせがここで行われている。
老朽化が著しく進んだため、1995年(平成7年)に大規模な修復工事が行われた。このとき、竣功当時の姿を再現するため、一郎の書斎となっていた増築部分は解体された。また、太平洋戦争中、空襲によって生じた屋根の歪みや外壁の焦げ跡も修復された。往時の姿を取り戻した洋館は、鳩山家の業績を伝える記念館「鳩山会館」として再生した。
会館は集会所としても用いられ、毎年4月には観桜会が催される。中央政界の重要人物が多く出席することから、多くの報道機関がこの観桜会に注目している。2001年(平成13年)4月3日に鳩山由紀夫の主唱で開催された観桜会では、彼が所属する民主党の議員のみならず、日本共産党の志位和夫や社会民主党の土井たか子が出席した。
[編集] 施設概要
当時としては珍しい鉄筋コンクリート造の洋館で、あちこちに鳩やミミズクをモチーフにした装飾が施されている。
設計者の岡田信一郎は様式建築を得意としていた。その手腕は鳩山会館に関しても発揮されており、アダムス・スタイル(Adams style)の応接間など、イギリス風の雰囲気を漂わせている。ただし、西洋建築の文法からは外れた部分もある。1階部分では引き違いの戸を多用し、日本家屋のような開放的な空間を作り出している。
2階の記念室は撮影禁止となっているが、応接室や庭園などの撮影は可能である。
一部の女性誌が鳩山会館を「ゴスロリが映える場所」と報じ、これに伴って記念撮影を望む女性たちによりトラブルが多発したため、2004年春以降、ゴスロリファッションの女性の入館を規制している[1]。
[編集] 1階
- 応接室
- 3つの応接室が並んでいる。東側の第3応接室は、食堂として用いられていた。
- サンルーム
- 建物の南端に位置しており、ここから庭に出ることができる。ここと応接間とを隔てる扉は、柱に収納できるようになっている。
[編集] 2階
- 大広間
- 2階にあった寝室3部屋が改装された。窓からは庭園が一望できる。北側の壁には、鳩山一郎の書「和為貴」が飾られている。
- 鳩山一郎記念室
- 鳩山威一郎記念室
- 鳩山薫記念室
- 鳩山薫(旧姓・寺田)は、鳩山一郎の妻。共立女子学園理事長を務めた。客間として使用されていた和室を、彼女の記念室としている。
[編集] その他
- 階段の踊り場部分にある。五重塔と思しき建物の上空を鳩が舞う絵柄である。
- 庭園
- 周囲に植えられた色取り取りの花が、見る者を楽しませる。
- 鳩山和夫・春子像
- 鳩山和夫は鳩山一郎の父で、早稲田大学校長や衆議院議長を歴任した人物。鳩山春子(旧姓・田賀)は和夫の妻で、共立女子職業学校(のちの共立女子学園)の創設者の1人。庭園の一角に鯉の泳ぐ水場があり、それを見下ろすように夫妻の像が設置されている。
[編集] アクセス
[編集] 外部リンク
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