青函連絡船
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青函連絡船(せいかんれんらくせん)は、青森県の青森駅と北海道の函館駅の間を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)・北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道連絡船である。営業キロ上は、113.0km。
なお、昭和21年7月1日から昭和24年7月15日まではLSTではあるが青函連絡船の小湊 - 函館航路もあった。小湊桟橋は平内町大字東滝字浅所にあった。
なお、東日本フェリーが運行する航路、および鉄道院による連絡船就航以前の沿革については青函航路を参照のこと。
駅名・桟橋名 | 営業キロ(航路距離) |
青森駅・青森桟橋 | 113.0Km |
函館駅・函館桟橋 |
目次 |
[編集] 歴史
- 1908年(明治41年)3月7日 - 帝国鉄道庁(国鉄)が運航を開始。最新鋭の蒸気タービン船比羅夫丸(ひらふまる)が就航し、青森~函館間を4時間で結んだ。鉄道直営の津軽海峡連絡船自体は日本鉄道によって計画され、連絡船自体も同社によって発注されていたが、就航は同社の国有化後になった。
- 1924年(大正13年)4月 - 初の自航形鉄道車両渡船「翔鳳丸」が就航。
- 1925年(大正14年)8月1日 - 青森・函館間で貨車航送開始。貨車を直接車載できることから、従前のはしけによる貨物輸送に比して輸送効率を著しく改善した。
- 1944年(昭和19年)1月 - 従来の函館桟橋に加え有川桟橋が竣工。貨物専用で供用開始。
- 1945年(昭和20年)3月6日 - 青森港内にて、戦時設計(戦時標準船W型)の第五青函丸が防波堤に接触し沈没。死者・行方不明者82名。
- 1945年(昭和20年)7月14日 - アメリカ軍艦載機の空襲により、12隻の連絡船が沈没等の被害を受け、壊滅状態となる。
- 1946年(昭和21年)2月11日 - GHQの命令により、連合国軍専用列車の運転を上野駅~札幌駅間で運転開始。この時青森駅~函館駅間は、青函連絡船に客車を積み込ませて運行、初の客車航送となった。この列車は、後に「Yankee Limited」(北部特急)と命名されている。
- 1950年(昭和25年)10月1日 - 日本人用の列車でも、客車の航送を開始。しかし、一等寝台車に限られていた。
- 1954年(昭和29年)9月26日 - 台風15号(洞爺丸台風)に伴う暴風雨が原因で、航行中の洞爺丸が函館郊外の七重浜に座礁し転覆。他に僚船4隻(第十一青函丸・北見丸・十勝丸・日高丸)が沈没。あわせて1430人の犠牲者を出した。いわゆる国鉄戦後五大事故の一つに数えられる洞爺丸事故である。これを機に、客車航送は中止。この事故を契機に青函トンネル計画が具体化されることになった。
- 1970年代前半には1日30往復もの運航が行われることもあったが、その後は旅客需要の航空移転や民間フェリー航路の整備に伴い、客貨ともに輸送量が減少した。(最盛期は昭和48年の約490万人)
- 1984年(昭和59年)2月1日 - 有川桟橋廃止。
- 1986年(昭和61年)10月6日 - 70万キロ航海達成。(羊蹄丸)
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄の分割民営化により、北海道旅客鉄道に継承される。
- 1988年(昭和63年)3月13日 - 青函トンネルを含む海峡線の開業に伴い、鉄道連絡船としての使命を終え、運航を終了。最終は羊蹄丸・八甲田丸であった。
- 1988年(昭和63年)の6月3日より9月18日まで、青函博に合わせて復活運航がなされた。これが終了した翌9月19日付で青函連絡船廃止、津軽海峡から完全に姿を消した。
[編集] 就航船(就航順)
- 比羅夫丸:1907年3月就航、1924年10月終航。大阪商船に賃貸後、1929年大阪商船に売却。
- 田村丸:1907年4月就航、1924年12月終航。一時復航後、1929年大阪商船に売却。
- 車運丸:艀型(無動力)貨車航送船。1914年12月就航、1927年6月終航。
- 白神丸(木造貨物船):1918年6月就航。1925年9月係船。
- 竜飛丸(木造貨物船):1918年10月就航。1926年4月係船。
- 第一快運丸:1919年4月就航。1925年9月係船。
- 第二快運丸:1919年4月就航。1925年9月係船。
- 壱岐丸(初代):元関釜・稚泊連絡船。1922~1924年青函航路就航。1932年大阪商船に売却(樺太丸)。1945~47年青函航路復帰。
- 翔鳳丸:1924年5月就航、青函航路初の車両渡船。1945年7月14日、空襲沈没。
- 津軽丸(初代)(翔鳳丸型):1924年10月就航、1945年7月14日、空襲沈没。
- 松前丸(初代)(翔鳳丸型):1924年11月就航、1945年7月14日、空襲炎上座礁。
- 飛鸞丸(翔鳳丸型):1924年12月就航、1945年7月14日、空襲沈没。
- 第一青函丸(貨車航送船第一船):1926年12月就航、1945年7月15日、空襲沈没。
- 第二青函丸(貨車航送船):1930年9月就航、1945年7月14日、空襲沈没。
- 第三青函丸(貨車航送船):1939年11月就航、1945年7月14日、空襲沈没。
- 新羅丸:元・関釜連絡船。 1942~1945年就航
- 第四青函丸(貨車航送船):1943年3月就航、1945年7月14日、空襲沈没。
- 第五青函丸(貨車航送船):1944年1月就航、1945年3月6日、青森港防波堤接触沈没。
- 第六青函丸(貨車航送船):1944年3月就航、1945年7月14日、空襲沈没。浮揚復航後1964年5月終航。
- 第七青函丸(貨車航送船):1944年7月就航、1964年12月終航。
- 第八青函丸(貨車航送船):1944年11月就航、1964年11月終航。
- 第九青函丸(貨車航送船):1945年2月15日浦賀ドックで落成。2月27日函館へ回航中勝浦沖で米潜水艦を警戒して座礁、沈没。一度も営業就航しないで沈没した。
- 第十青函丸(貨車航送船):1945年6月就航、1945年7月14日、空襲沈没。
- 亜庭丸:元・稚泊連絡船
- 景福丸:元・関釜連絡船
- 壱岐丸(第2代目):元関釜連絡船。1945~1948年青函航路就航。国家賠償として1950年に朝鮮郵船へ譲渡。
- 第十一青函丸(貨車航送船):1945年10月就航、1954年9月26日、沈没。
- 宗谷丸:元・稚泊連絡船
- 第十二青函丸(貨車航送船):1946年5月就航、1965年7月終航。
- 石狩丸(初代)(貨車航送船):1946年7月就航、1965年9月終航。
- 昌慶丸:元・関釜連絡船
- 洞爺丸:1947年11月就航、1954年9月26日、沈没。
- 北見丸(初代)(貨車航送船):1948年2月就航、1954年9月26日、沈没。
- 十勝丸(初代)(貨車航送船):1948年4月就航、1954年9月26日、沈没。1956年浮揚復航、1970年3月終航。青函航路に最後まで残ったタービン船だった。
- 羊蹄丸(初代):1948年5月就航、1965年6月終航。
- 渡島丸(初代)(貨車航送船):1948年7月就航、1965年8月終航。
- 摩周丸(初代):1948年8月就航、1964年10月終航。
- 日高丸(初代)(貨車航送船):1948年10月就航、1954年9月26日沈没。1956年浮揚復航、1969年9月終航。
- 大雪丸(初代):1948年11月就航、1964年8月終航。1964年に三洋商事を通じてギリシャに売却されカーフェリーに改造、1991年12月6日アドリア海において沈没。
- 徳寿丸:元・関釜連絡船
- 檜山丸(初代)(貨車航送船):1954年の台風で失った船の代船として建造された第1船。青函航路初のディーゼル船。
1955年9月就航、1976年7月終航。
- 空知丸(初代)(貨車航送船):1955年9月就航、1976年2月終航。
- 十和田丸(初代):1957年10月就航、1966年10月終航。貨車航送船に改造、船名も石狩丸(2代目)に変え、1967年5月就航、1977年3月終航。
- 津軽丸(2代目):1964年5月就航、1982年3月終航。青函航路初の自動化第1船。客船ながら、これまでの貨車航送船よりも多い48輌の貨車を積載する大型船。速力も在来船の4時間30分から3時間50分になり「海の新幹線」といわれた。以後建造船はすべて津軽丸型。1983年3月に北朝鮮に売却。
- 八甲田丸:1964年8月就航、現在、青森駅北側の「メモリアルシップ八甲田丸」として見学可能。
- 松前丸(2代目):1964年12月就航、1982年11月終航。1983年に北朝鮮に売却。
- 大雪丸(2代目):1965年5月就航、1988年1月終航。売却後長崎港で、ホテルシップ「VICTORIA」として使用されたが、2005年12月20日営業終了。閉鎖中。
- 摩周丸(2代目):1965年6月就航、現在、函館駅近くの「函館市青函連絡船記念館摩周丸」として見学可能。
- 羊蹄丸(2代目):1965年8月就航、現在、東京都品川区東八潮(いわゆるお台場地区)の船の科学館の「パビリオン羊蹄丸」として見学可能。
- 十和田丸(第2代目):1966年11月就航、クルーズ客船「ジャパニーズドリーム」を経て現在、フィリピンのマクタン島にホテルシップとして係船されている(営業休止中)。
- 渡島丸(2代目)(貨車航送船)(貨車55輌):1969年10月就航。1978年10月終航。
- 日高丸(2代目)(貨車航送船)(貨車55輌):1970年4月就航。1984年1月終航。
- 十勝丸(2代目)(貨車航送船)(貨車55輌):1970年7月就航。1984年1月終航。
- 空知丸(2代目)(貨車航送船)(貨車55輌):1976年4月就航。
- 檜山丸(2代目):1976年8月貨車航送船(貨車55輌)として就航したが、1982年に客貨船に改造。
- 石狩丸(3代目):1977年5月貨車航送船(貨車55輌)として就航したが、1982年に客貨船に改造。
[編集] その他
- 接続列車の指定券を持つ乗客は、優先的に乗船できた。航路廃止まで残っていた全席指定の「北斗」は、青函連絡を最優先としたためである。次に優等列車からの乗船客を優先した(特急・急行の車内で、「特」の文字や赤い線が印刷された乗船名簿をを配布していたのは、優等列車からの乗継を区別するためである)
- 指定券の発売は乗車1ヶ月前からであるが、青函連絡客の座席確保のため、本州・北海道の指定券を乗継割引で購入する場合は1ヶ月1日前から発売した。
- 下り北斗星(かつては上りも)に函館・札幌間の立席乗車区間が設定されているのは、当時の青函連絡の名残である。
- 末期の利用状況は悲惨の一言に尽きたが、それでも、盆、GW、年末年始は超満員(ねぶた・函館の盆・函館港まつり、弘前・函館の観桜とGWは時期が一致することも大きかった)となり、臨時便の運行や、乗船名簿に通し番号を振った乗船整理券を配布する措置も取られた。
- 国鉄・JRの規則では、航路でも「乗船券」ではなく、「乗車券」であった。