足利義持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
足利義持(あしかがよしもち、至徳3年/元中3年2月12日(1386年3月12日)-応永35年1月18日(1428年2月3日))は室町幕府4代将軍である。父は足利義満、母は安芸法眼の娘藤原慶子(ふじわらのよしこ)。兄弟に足利義教、足利義嗣ほか。正室は日野資康の娘日野栄子。子は足利義量。
[編集] 生涯
義満との父子関係は険悪であったとされ、1394年(応永元)に9歳で義満より将軍職を譲られるが、太政大臣となった義満の在世中は実権がなかった。1406年(応永13)には側近の山科兄弟の事で叱責された記録が残っており、1408年(応永13)、義満死去直前に後小松天皇が北山第に御成した際も、義満が寵愛した異母弟の義嗣は天皇に謁見したが、義持自身は京都警備番をさせられる等、偏愛にも苦しんでいたようである。
1408年(応永15)の義満死後は一時的に花の御所(室町第、京都市上京区)に住むが、翌年には2代将軍足利義詮の住んでいた三条坊門邸(京都市中京区)へ移っている。また、義満が造成した政務中枢「北山第」は鹿苑寺(金閣)をのぞいて全て取り壊した。政治は、管領を務め宿老として影響力を持っていた斯波義将らに補佐され、幕政を守旧的なものに改める。これによって一度は失われた室町幕府の「武家政権」色を復活させようとしたと言われている。義満が庇護していた世阿弥を遠ざけ(ただし、これは義持個人の趣味の問題とする説もある)、朝廷からの父義満に対する太上天皇の追号を辞退し、1411年(応永18)には朝貢形式に対して反発の声もあった日明貿易(勘合貿易)を取り止めるなどした。
1410年(応永17)には南朝最後の天皇だった後亀山上皇が吉野へ出奔。(1416年に帰京)1414年(応永21)にこれに呼応した北畠満雅が1412年(応永19)の称光天皇即位を不服とし、両統迭立の約束を守る事を要求する為に反乱を起こしたが、まもなく和解した。同年には斯波義将の嫡子、斯波義重が義持の不興を買い、高野山に隠退した事件も起こっている。1416年(応永23)には関東地方で上杉禅秀の乱が起こり、これに関与していた弟の義嗣を相国寺等に幽閉、2年後の1418年(応永25)に殺害している。これら一連の事件を処理した後の1423年(応永30)に子の義量に将軍職を譲り、翌年6月に等持院で出家(実権は握り続けた)し、寺社参詣などを行いはじめるが、息子義量は1425年に早世する。1427年(応永34)には赤松義則死後の赤松氏の相続の際、所領を近習の赤松持貞に預けようとすると、赤松満祐が京を出奔して領国の播磨国へ下国する事件なども起こる。義持は義量死後の後継者を定めないまま死去、享年43。
義持の治世は懐良親王が制圧していた九州を有力大名の大友氏・大内氏・菊池氏が引き継いで統治していたり、関東地方の鎌倉公方は半独立国状態となるなど、不安定要素はいくつも存在したが、政治的には小康状態が続き、室町時代の中では比較的安定した時代であった。義持の死後、将軍職は弟の義教が継ぐことになる。
義持は父・義満とは不仲であったといわれたが、実際の基本政策では義満の意を汲んだ政治を行っていた。
法号:勝定院殿顕山道詮大禅門
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
1394年(応永元)12月17日、正五位下に叙し、左近衛中将に任官。併せて征夷大将軍宣下。
1395年(応永2)6月3日、従四位下に昇叙。左近衛中将兼任如元。
1396年(応永3)1月28日、美作権守兼任。4月20日、正四位下に昇叙。9月12日、参議に補任。左近衛中将美作権守両官兼任如元。
1397年(応永4)1月5日、従三位に昇叙。参議左近衛中将如元。3月29日、権中納言に転任。
1402年(応永9)1月6日、正二位に昇叙。権大納言如元。11月19日、従一位に昇叙。権大納言如元。
1409年(応永16)3月23日、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
1422年(応永29)3月18日、征夷大将軍辞職。4月25日、出家。
1428年(応永35)1月18日、薨去。1月23日、贈太政大臣。
室町幕府将軍 |
---|
足利氏 - 将軍家 - 尊氏 | 義詮 | 義満 | 義持 | 義量 | 義教 | 義勝 | 義政 | 義尚 | 義材 | 義澄 | 義稙(義材再任) | 義晴 | 義輝 | 義栄 | 義昭 |