斯波義重
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斯波 義重(しば よししげ、建徳2年/応安4年(1371年) - 応永25年8月10日(1418年9月10日))は室町時代前期の守護大名。斯波義将の子。官位履歴は正五位下から従三位。治部大輔、左衛門佐、右兵衛督を歴任。母は吉良満貞の娘。妻は甲斐教光の娘。子は斯波義淳、義郷、持有。
父と同じく将軍・足利義満に仕えた。応永5年(1398年)、義満から越前国守護として、その所領の仕置きを命じられている。翌年の応永の乱では父と共に幕府方として参戦し、負傷しながらも武功を挙げた。翌年、その功績を賞されて尾張国守護を命じられる。義重は義満からの寵愛を受け、その猶子となったばかりか、応永12年(1405年)7月には管領に任じられている。義満の死後は、その後を継いだ足利義持を補佐したが、応永16年(1409年)8月に管領職を子の斯波義淳に譲って隠居した。その後は尾張の経営に務め、寺社勢力との関係改善や強化に努めている。しかし応永21年(1414年)6月、義持の怒りに触れて高野山に追放されてしまった。
応永25年(1418年)8月10日、48歳で死去した。法名は興徳寺殿道孝大純。義満に気に入られてその猶子となったとき、名を義教と改めている。