赤松持貞
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赤松 持貞(あかまつ もちさだ、生年不詳 - 応永34年11月13日(1427年12月1日))は、室町時代の播磨・美作・備前の守護大名である赤松氏の一族になる。祖父は赤松則村の次男赤松貞範。父は赤松貞範の次男になる赤松頼則。
赤松則村には四人の息子がおり、円心の次に長男の赤松範資が継いだのだが、わずか1年で没した。その次に三男の赤松則祐が家督を継いだ。次男の赤松貞範は家督争いに敗れたのだった。 赤松貞範の家系は将軍家に近習することで生きながらえていく道を選ぶことになった。この赤松氏の分家を春日部家という。持貞は春日部家の三代目にあたる。
応永34年(1427年)、理由は定かではないが先代の四代将軍足利義持が赤松満祐を追放して持貞に三ヶ国の守護職を与えようとする噂が広がった。事実として赤松満祐は守護職継承の認可を得ようと三度も申請したが三度とも足利義持に握りつぶされたのである。これに立腹した赤松満祐は西洞院の自宅を放火すると、領国の播磨国に戻り篭城の準備を開始した。
事態を憂慮した幕臣は管領畠山満家らが中心となって収拾策を模索する。義持が何の咎もない赤松満祐を敵視したのは義持の近習に春日部家の赤松持貞がいるためだと判断した幕臣は、政治的に解決するために、赤松持貞を処分することにした。赤松持貞に課せられた罪状は「義持の妻女との密通」だった。これによって赤松持貞は自害に追い込まれたのである。なお、春日部家は持貞の甥になる貞村が継ぐことになった。
持貞の嫡男は赤松姓から田原姓へと変えて家貞が継いだ。京を追放された家貞は播磨に逃れた。その七代あとに玄信が生まれた。現在の高砂市米田町で産まれた玄信は、美作の宮本村に住む平尾氏に養子に出た。これが宮本武蔵になったという。
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