謀反
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謀反(むほん)は謀叛とも表記し、主人・主君にはむかうことを意味する(ただし、厳密には後述のように謀反と謀叛には微妙な差異がある)。特に武力・軍事力を動員して反乱を起こすことを指すことが多いが、少人数で主人・主君を暗殺する行為を謀反ということもある。ただし、近代の事件を指して謀反の語を使うことはまれであり、基本的に前近代の事件を指す言葉である。東アジアの人々に浸透した儒教の観念では大変重い罪であるととらえられた。
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[編集] 「謀反」と「謀叛」
古代日本の大宝律令・養老律令の律の規程では、「謀反」はぼうへん・むへんと発音して、「謀叛」とは区別されていた。「謀反」とは国家(政権)の転覆や天皇の殺害を企ててる罪のことであり、あらゆる罪の中でも最も重く斬刑などに処せられる八虐の筆頭であった。一方「謀叛」はいわゆる天皇に危害を加えるなどの大逆行為を含まない国家(政権)の転覆及び敵国への内通・亡命などが対象となり、こちらも八虐の第三とされていた。7~8世紀に政争の末、謀反・謀叛の罪によって殺害された貴族は少なくない。平安時代頃から、中央貴族に対する死刑は好まれなくなり、死刑に繋がる重い刑罰である謀反・謀叛はほとんど適用されなくなる。
のちに武士が台頭してくると、地方で武士の間の抗争が巻き起こり、その中で力を持ちすぎた者が中央政府である朝廷に謀反人と見なされ、中央から派遣された軍隊(実際には、これも武士たちである)によって討たれる事件が起こるようになった。
鎌倉時代に入ると、武士の間の主従関係が重要になり、ある武士と主君の関係を結んでいる家臣の武士が、主君の武士に反抗することが起こり、これを謀反と呼ぶ。戦国時代には数多くの謀反が起こって家臣が主君を追って自ら大名になる事件、「下克上」が起こるようになった。戦国時代の動乱を最終的に収めた江戸幕府は、このような風潮を改め、家臣の主君への従順を教えるため朱子学の道徳を武士に学ばせる。
明治時代の西南戦争や幸徳秋水事件(大逆事件)、1936年の二・二六事件も、当時の資料には謀反の言葉が見うけられる。しかし現在では、近代的な用語としてクーデターや反乱などの言葉が使われ、明治以降の武力反抗事件に謀反という言葉は用いられなくなっている。
[編集] 天皇御謀叛
鎌倉時代末期、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を計画した正中の変(1324年)・元弘の変(1332年)を幕府側は「天皇御謀叛」(あるいは「当今御謀叛」)と呼び、世間一般もこれに倣った。これは単に「朝廷の衰微・幕府の驕慢」という皇国史観的な発想で解釈すると事実の見誤りの生じさせる言葉である。
平安時代後期以後、朝廷は社会秩序を維持するだけの警察・軍事的な裏付けを失って、武士たちによってその維持が図られてきた。やがて、源頼朝によって幕府が開かれて全国の武士団を統率するようになると、鎌倉幕府のみが日本全国の警察力・軍事力を統制して社会秩序を維持できる唯一の組織となって、朝廷はその行動に大義名分を与える役割に限定されるようになる。つまり、この時代には鎌倉幕府に対する反抗は即ち社会秩序全体を危うくする行為と見なされていた。つまり後醍醐天皇の行為は鎌倉幕府が社会秩序を維持する国家形態及び政権自体に対する転覆の企て、即ち「謀叛」であると見なされたのである。