反乱
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反乱(はんらん)とは、国家の支配者に対して被支配層が徒党を組み、組織的な暴力的、破壊的、示威的行動によって何らかの不満を表明し、その不満の原因解決を迫り、あるいは被支配層みずからの手で不満の原因を解決しようとする行為。英語ではRebellion、insergency、Uprisingなどの類義語となる。
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[編集] 反乱と人類
人類が「反乱」という行為を最初に起こしたのは地球上のどの地域で、それがいつなのかは歴史に正確に残っていないが、文明を築き、集団生活の中に「社会」を構成し始めた4大文明の時代から近代まで、人類は歴史に反乱の記録を刻んできた。 シュメール王朝を吸収して北部メソポタミア地方に興ったアッカド帝国第2の王、リムシュが生きた紀元前2300年代にはすでに、旧シュメール王朝派の都市国家ウルの王、カクを中心にした勢力がリムシュ王に対して反乱を起こし「シュメールと激しく戦った。8742人の兵士を殺し都市を破壊し、城壁を崩した」と記録が残されている。
この反乱の原因が、旧シュメール王朝派によるクーデター的なものだったのか、帝国による旧シュメール王朝派への迫害の結果なのかは判明していないが、より詳しく歴史をつづるようになったその後の人類による反乱の記録を見てゆくと、反乱が発生した国家の支配層には、常にパブリックな部分に何らかの問題があることが読みとれる。
[編集] 反乱の背景
問題とは時に被支配層への弾圧であったり、貧困が原因の食糧不足であったり様々だが、こうした一時的あるいは慢性的な問題を、被支配層が選挙やデモ、請願などの平和的主張によって訴えることができ、支配者がその訴えを受け止める国家ならば、反乱は発生しづらい。あるいは、支配者が有能であり、被支配層の生活を考慮して善政を行う場合も、反乱が起きる可能性は低いと言える。
逆に、被支配層から支配者への訴えを権利として認めない国家、訴えを弾圧する国家、あるいは平和的手段によって訴える事はできるが、支配者が常にそれを黙殺するような状態の国家、深刻すぎて平和的に訴える次元を過ぎたような問題のある国家では、反乱の可能性は高まる。言い換えれば反乱とは、被支配層による、支配者への究極の意思表示方法であると考えられるが、客観的に見れば重犯罪であり、鎮圧されれば生命の保証はなく、後がない状態であることを承知の上で被支配層が反乱を起こすと言う事態は、それだけで支配者と被支配層の完全な没交渉状態を表しており、その国家運営が部分的に破綻していることの現れだと言うことができる。
歴史的に、選挙・請願・デモなどの平和的主張が被支配層の「権利」として認められるのは、民主政が定着し始めた19世紀から20世紀を待たねばならず、それ以前の帝政・王政が主流の世界では、被支配層には支配者を批判したり、不満を表明する手段がなく、またその権利を自覚していなかったため、幸運が有能な支配者をもたらさない限り、被支配層は支配者に対する不満を蓄積し続け、結果として反乱を起こす可能性が非常に高い時代だったと言えるだろう。
現代中国は、共産党の腐敗による搾取、農村地帯と都市のあまりもの貧富の差などが原因で、小規模な農民反乱が各地で起こっている。中国大陸は紀元前から現代までの歴史上、最も反乱事件の多く起こった地域ではないかと思われるが、最近でも1989年の天安門事件で、学生による非暴力的デモ行為を反乱として軍事力でこれを鎮圧した過去があり、前述の「反乱が起きるケースの国家」に大きく当てはまる民度の低さがいまだに見られる。
「反乱」と類義・近似の言葉は、日本語にも英語にも数多くあるので「反乱とは何か」を考えるとき、その境界を見つけるのが多少難しい。(ちなみに英語では、反乱を大きくRebellionとし、民衆が非武装ならNonviolent resistance、武装していればUprisingと呼ぶ)
一例をあげれば、明智光秀は何かしらの不満があって織田信長を誅したのだから「本能寺の変」は「明智光秀の反乱」とでも言えそうだが、彼は飢えた農民たちを率いた無名の男ではなく、織田信長の腹心だった。本能寺の変は最初から最後まで、支配層の内側で起こった事件である。日本語は従者が主人に反逆することを「謀反」と呼ぶが「本能寺の変」は、明智が政権を奪ったクーデターであり、そこから豊臣と明智の短期間の内乱に発展したと言えるだろう。
そこで反乱とは「下層」の被支配層が「上層の」支配者に対して起こす「階級間闘争」であると考えれば「反乱」の構図が明確になる。起こす側と起こされる側の階級差が大きければ反乱であり、少なければクーデターまたは内乱ということである。剣闘奴隷という最下層の人々が巨大なローマ帝国に挑んだスパルタクスの反乱(下記リンク参照)は、完全に反乱の概念を満たす事件であろう。
「失敗」した反乱・「成功」した反乱
だがここで歴史的に「~の反乱」と名付けられているさまざまな事件を検証してゆくと、上記の「階級差」と共に「目的を持って始められたが、それを果たせず鎮圧されて終わった事件」も「反乱」の一義としていいように思える。 後世から見れば反乱を起こした人々が持つ大義は十分理解できるものだが、反乱を鎮圧した当時の支配者は、反乱を起こした人々を、支配者の地位を脅かした大罪人としてひとくくりで処罰し、彼らには汚名と「反乱」というやや悪性のイメージしか残されない。仮にこれを「失敗した反乱」と呼ぶなら、歴史にはこの種の「失敗した反乱」が圧倒的に多いと言える。
では歴史上「成功した反乱」の例はあるのかと言えば、それは反乱とは呼ばれず、違う名前で残されると言える。 「ロシア革命」は皇帝ニコライ家とツァーリズムの打倒という国家体制の大転換に成功したゆえに「革命」として歴史に残されているのだが、これが途中で鎮圧され、レーニンたちが処刑されていたら、最終目標だったニコライから見たそのままに、後世では「コミュニストの反乱」などと呼ばれたかもしれない。
[編集] 反乱とリーダー
反乱には、現状を正さねばならないという主張があり、行動力またはカリスマ性のあるリーダーが現れ、被支配層を統率して進行する傾向が強い点で、大衆が無秩序に破壊と略奪を行う暴動とは大まかに区別できる。リーダーは反乱の象徴であり、中心であるため、リーダーが倒れると同時に、その反乱は失速し、終息に向かう場合がある。紀元前73年-71年の古代ローマで発生し、イタリア半島全土を混乱に陥れた剣闘奴隷のスパルタクスによる「スパルタクスの反乱」、184年の中国で、英雄割拠する三国時代の幕を開く出来事となった「黄巾の乱」を起こした張角、1637年-1638年の日本、キリスト教徒たちを率いて悲劇的な「天草の乱」の中心にいた天草四郎などが、よく知られた、歴史上有名な反乱のリーダーである。
19世紀後半から20世紀前半にかけて、アジア・アフリカ地域の民族主義の高まりの中で欧米の植民地支配に対抗して起きた独立運動の盛り上がりの中には、インドのマハトマ・ガンジーをのぞいて、歴史上特筆されるようなリーダーは現れないが、反乱によって圧制者の手から国家の独立を勝ち取らねばならない場合には、1人のリーダーよりも「民族の誇り」が、大衆全体をより強く動かしうる。
[編集] 反乱一覧
- 詳細は戦争一覧を参照。
- 紀元前498年 - 紀元前494年 イオニアの反乱(古代ギリシア)
- 紀元前209年 陳勝・呉広の乱(中国)
- 紀元前154年 呉楚七国の乱(中国)
- 紀元前73年 - 紀元前71年 スパルタクスの反乱(古代ローマ)
- 184年 黄巾の乱(中国)
- 291年 - 306年 八王の乱(中国)
- 532年 ニカの乱(東ローマ帝国)
- 756年 - 763年 安史の乱(中国)
- 874年 - 884年 黄巣の乱(中国)
- 1120年 方臘の乱(中国)
- 1266年 - 1301年 カイドゥの乱(ハイドゥの乱)
- 1296年 - 1333年 スコットランド独立戦争(スコットランド)
- 1351年 - 1366年 紅巾の乱(中国)
- 1358年 ジャックリーの乱(フランス)
- 1381年 ワット・タイラーの乱(イングランド)
- 1524年 - 1525年 ドイツ農民戦争(ドイツ)
- 1562年 - 1598年 ユグノー戦争(フランス)
- 1631年 - 1645年 李自成の乱(中国)
- 1648年 - 1653年 フロンドの乱(フランス)
- 1667年 - 1671年 ステンカ・ラージンの乱(ロシア)
- 1673年 - 1683年 三藩の乱(中国)
- 1773年 - 1775年 プガチョフの乱(ロシア)
- 1789年 バウンティ号の反乱(イギリス)
- 1793年 - 1796年 ヴァンデの反乱(フランス)
- 1796年 - 1804年 白蓮教徒の乱(中国)
- 1825年 デカブリストの乱(ロシア)
- 1850年 - 1865年 太平天国の乱(中国)
- 1857年 - 1859年 インド大反乱(インド)