朱子学
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朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹が自らの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学・程朱学派と呼ばれる。当時は程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学と呼ばれた。
陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学からは宋学と呼ばれた。
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[編集] 概要
朱熹は、それまでばらばらで矛盾を含んでいた北宋の学説を、程頤による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)や程顥の天理(天が理である)をもとに、仏教思想の論理体系性、道教の生成論及び静坐という行法を取り込みつつも、それを代替する儒教独自の理論にもとづく壮大な学問体系に仕立て上げた。そこでは、自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。
なお朱子の理とは、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気は万物を構成する要素で運動性をもち、理は根本的実在として気の運動に対して秩序を与えるとする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。彼の主張する学説は性即理説といわれ、陸象山の学説心即理説と対比され、朱熹は、心即理説を、社会から個人を切り離し、個人の自己修養のみを強調するものとして批判した。一方で陳亮ら功利学派(事功学派)を、個人の自己修養を無視して社会関係のみを重視していると批判している。
朱熹の学は社会の統治を担う士大夫層の学として受け入れられたが、元代には科挙試験が準拠する経書解釈として国に認定されるに至り、国家教学としてその姿を変えることになった。
明代、国家教学となった朱子学は科挙合格という世俗的な利益のために行われ、また体制側でも郷村での共同体倫理確立に朱子学を用い、道徳的実践を重んじた聖人の学としての本質を損なうようになった。そこで明代の朱子学者たちは陸九淵の心学を取り入れて道徳実践の学を補完するようになった。この流れのなかで王守仁の陽明学が誕生することになる。一方で胡居仁のように従来の朱子学のあり方を模索し、その純粋性を保持しようとした人物もいる。
清代の朱子学は、理気論や心性論よりも、朱熹が晩年に力を入れていた礼学が重視され、社会的な秩序構築を具体的に担う「礼」への関心が高まり、壮大な世界観を有する学問よりは、具体的・具象的な学問へと狭まっていった。礼学への考証的な研究はやがて考証学の一翼を担うことになる。清代になっても朱子学は体制教学として継承され、礼教にもとづく国家体制作りに利用され、君臣倫理などの狭い範囲でしか活用されることはなかった。
[編集] 背景
朱子学が編み出された南宋は、中国史において重大な時期である。唐代に完成した中華思想に拠れば、東アジアの中心地は中国であり、周辺諸国はそこに服従すべきであると考えられてきた。しかし、女真族などの中国侵攻によりその領土を失ったため、中華思想が危ぶまれ、知識人や支配層のアイデンティティが危機に晒されたのである。そのため『大義名分論』即ち家臣は主に絶対的に服従すべきであるという思想、『華夷の別』即ち非中国人は中国人より劣る存在であるという思想などを確立する必要があったのである。また、知識人や支配層が支配の拠り所としてきた「土地」に束縛される事のない商工業の急激な発展とそれに伴って商工業者の発言力が高まってくる事態に対しても強く警戒して、利益=欲望であるとして商工業が人間としてのあり方(実は中華思想を中心とする社会秩序)に反するものであるとして、その価値を否定的に捉えたのである(儒教には元々農本主義的な発想があり、利益を貪るような振舞いは批難されたものの、商工業を根本的に否定する考えは少数であった)。
[編集] 日本への伝来と影響
一般には正治元年(1199年)に入宋した真言宗の僧俊芿が日本へ持ち帰ったのが日本伝来の最初とされるが、異説も多く明確ではない。鎌倉時代後期までには、五山を中心として学僧等の基礎教養として広まり、正安元年(1299年)に来日した元の僧一山一寧がもたらした注釈によって学理を完成した。
後醍醐天皇や楠木正成は朱子学の熱心な生徒と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけての彼らの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。その後は長く停滞したが、江戸時代に入り林羅山によってその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた。だが皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりをするべきという尊皇論と尊皇運動が起こり、後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくのである。
朱子学の思想は近代日本にも強い影響を与え、軍部の一部では特に心酔し、二・二六事件や満州事変にも多少なりとも影響を与えたといわれている。
[編集] 日本の簡単な儒系図(全てではない。)
程朱学派(いわゆる宋学を奉じたもの)
官儒派
- 林系
林羅山以下いわゆる林派の方々。
- 順庵系
松永尺五の弟子、木下順庵の一派。 主な弟子 新井白石、室鳩巣、祇園南海など。
- 一斉系
南学派
- 谷時中