摂家
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摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した公家の最高位の家格。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白に昇任できる家。近衛家・九条家・一条家・二条家・鷹司家の5家がある。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。
藤原北家の良房の嫡流を経て、鎌倉初期に至り藤原忠通の子の基実と兼実がそれぞれ近衛家と九条家を成立させ、嫡流が2家に分裂した(この他に同じ忠通の子である基房を祖とする松殿家があったが、松殿師家が摂政になった後は摂政・関白を輩出することなく早いうちに断絶しているため摂家には数えない)。
のち、近衛家からは兼平により鷹司家が成立。さらに九条家からは、道家の子の良実、実経により、それぞれ二条家、一条家が成立した。この5家の中から藤氏長者も選出された。
摂家の下の家格は
である。
[編集] 摂家以外からの摂政・関白就任
五摂家成立以後は、摂政・関白にはこの5家の者のみが任じられ、摂家たる5家は摂政、関白職を独占した。そのため、関白就任を目論んだ平秀吉(豊臣秀吉。当時は平朝臣を称していた)は、1585年(天正13年)に近衛前久の猶子となることで関白就任を果たした。その後、豊臣秀吉の養子である豊臣秀次は「豊臣朝臣」として関白に任じられており、これが五摂家以外で関白に任じられた唯一の例外である。
[編集] 江戸幕府と摂家
江戸幕府が成立すると、幕府は禁中並公家諸法度を制定して、摂政・関白は幕府の推薦なくして任命できない仕組みとなった。その一方で、幕府は摂政・関白並びに摂家に対する公然・非公然の支援を行った。この結果、寛永年間以後は摂関政治の時代ですら建前上参加さえも許されていなかった朝議を摂政・関白が主宰し、清華家以下の公家は大臣であっても参加権・発言権が剥奪されるようになった。また、摂家が断絶した場合の後継の養子には必ず皇族か同じ摂家からの養子しか認められなくなり、太政大臣の任官要件に摂政・関白・征夷大将軍の経験者のいう暗黙の規定が追加されて、清華家以下の公家は朝廷中枢から排除された。その結果、江戸時代の朝廷は五摂家の当主の合意のみでの運営が可能となり、天皇と言えどもそれに抗う事は困難となった。更にその五摂家の当主ですら幕府が摂政・関白の任命権を事実上掌握している以上、幕府の意向に反する事は出来なかったために、その結果、幕府→摂家・武家伝奏(最大でも5+4名)→天皇及び諸公家という幕府にとっては非常に効率の良い朝廷統制の仕組みが完成した。
もっとも、天皇や摂家以外の公家もこれに素直に従う事はなく、機会を捉えて抵抗を続けた。その不満が後水尾・霊元両上皇による院政や宝暦事件・尊号一件・廷臣八十八卿列参事件などの形で噴出することになる。
明治維新後はそれぞれの家の当主は公爵に叙せられた。それ以降は、摂家から摂政に任じられることはなくなったため、明治以降の5家については、「旧摂家」など「旧」を冠して呼称することが多い。
[編集] 関連項目
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