刀伊の入寇
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刀伊の入寇(といのにゅうこう)とは1019年に満洲(中国東北部)の女真族(満州民族)の一部が壱岐・対馬を襲い、更に筑前まで攻めてきた事件。刀伊の来寇ともいう。
[編集] 経緯
刀伊とは、高麗が北方の蛮族を指す時に使う名称であった。15世紀の訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では되(そのまま「トイ」)として表れる。
刀伊は賊船約50隻の船団を組んで対馬・壱岐を襲撃し、島民を殺害、1300人を拉致した後、現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を荒らしまわった。これに対し、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。
当初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、後に高麗からもたらされた情報で賊の一団が「刀伊」であったことが判明した。「刀伊」の主流は恐らく満洲民族の前身である女真族であったと思われる。当時の女真は農耕の習慣を持っておらず、代わりに農耕民族を拉致して自己の勢力圏内で農耕に従事させて食糧を確保していたとも言われている。このため、入寇の目的としては単なる海賊行為の他にこうした農耕民族住民の確保があったとも言われている。
この非常事態に対して朝廷は何ら具体的な対応を行わず、刀伊が入寇して来た事実を認知したのも隆家らが刀伊を撃退した後のことであった。その上、撃退した藤原隆家らに何ら恩賞を与えなかった。これは「平将門の乱(天慶の乱)」、「藤原純友の乱(承平の乱)」に続き朝廷の無能振りと武士の影響力の増長を示すこととなった(後に引退していた藤原道長の口添えによって恩賞が出されたともされている)。
隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行ったが、ここでも高麗の水軍に撃退された。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『世界大百科事典(ネットで百科@Homeの「刀伊の入寇」(黒板伸夫))』(平凡社)