羽田孜
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羽田 孜(はた つとむ、男性、昭和10年(1935年)8月24日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(13期)。
元内閣総理大臣(80代)。(在任期間:平成6年(1994年)4月28日 - 6月30日)。農林水産大臣(2回)、大蔵大臣、副総理兼外務大臣、新生党党首、新進党副党首、太陽党党首、民政党党首、民主党幹事長、同党特別代表などを歴任した。平成17年(2005年)現在、民主党に所属し、党最高顧問。
生年月日 | 昭和10年(1935年)8月24日 |
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出生地 | 出身地:長野県 出生地:東京都大田区 |
出身校 | 成城大学経済学部卒業 |
学位・資格 | 経済学士 |
前職・院外役職(現在) | 衆議院議員秘書 会社員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆・国家基本政策委員会委員 |
世襲の有無 | 2世 父・羽田武嗣郎(衆議院議員) |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
長野3区 |
当選回数 | 13回 |
所属党派(現在) | 民主党(羽田グループ) |
党役職(現在) | 最高顧問 長野県総支部連合会代表 |
会館部屋番号 | 衆・第1議員会館324号室 |
ウェブサイト | 羽田孜公式HP |
目次 |
[編集] 概要
[編集] 生い立ち
昭和10年(1935年)8月24日東京都大田区蒲田に長野県人羽田武嗣郎、とし子夫妻の長男として生まれる。父武嗣郎は朝日新聞記者を経て衆議院議員となる。母とし子は、志賀高原を命名した長野電鉄の創設者神津藤平の娘である。名付け親は、武嗣郎の東北帝国大学時代の恩師に当たる阿部次郎で、「孜孜(しし)として働く」から取られた。昭和17年(1942年)第二延山小学校に入学するが、戦争が激しくなったため、昭和19年(1944年)3月父の郷里である長野県に疎開する。昭和21年(1946年)父、武嗣郎が、公職追放。昭和26年(1951年)上田第二中学校に入学。この頃から、議論好き、世話好きの片鱗を見せ始める。長野県上田高等学校を受験するが、不合格となり、東京の成城学園高等学校に入学。昭和29年(1954年)成城大学経済学部に入学する。大学3年生の時に、ハンガリー動乱で亡命してきた学生をかくまう。昭和33年(1958年)成城大学を卒業する。父と同じくジャーナリズムに憧れ、朝日新聞、日本経済新聞などを受験したが、落ちる。父のコネで、小田急バスの試験を受け入社した。小田急バスでは、吉祥寺営業所を経て、観光課に配属される。観光課では企画を担当し、春夏秋の観光シーズン以外に顧客を掘り起こすため、武嗣郎の友人である野田宇太郎の協力を得て、「文学散歩」「史跡散歩」などに力を入れた。その他に学生、老人、会社などの慰安旅行や幼稚園の遠足や学校の修学旅行、更には皇族のご旅行を企画し、時には車掌も勤めた。昭和40年(1965年)綏子夫人と結婚。羽田は父親の後継者となって、政界入りする気持ちは無かったが、昭和38年(1963年)に武嗣郎が脳出血で倒れたため、後援会を中心に政界入りを打診され、昭和43年(1968年)10月小田急バスを退職する。
[編集] 政界入り
昭和44年(1969年)12月第32回衆議院議員総選挙に旧長野2区から自由民主党公認で立候補し、7万3325票を獲得し、トップ当選となる。自民党では、田中派に所属した。羽田は、郵政政務次官を経て、農林政務次官となり、農林族としてそのキャリアを歩むこととなる。衆議院農林水産委員長、自民党林政調査会長、総合農政調査会長などを歴任した。農林族としての羽田は、それまでのいわゆる「ベトコン議員」に代表される毎年米価を引き上げて、農村に一方的に利益を傾斜配分するものではなく、国内産業としての農業の位置づけや、国際経済における農業貿易問題を思考するもので、加藤紘一などとともに、「総合農政族」と呼ばれた。昭和59年(1984年)には、自民党を代表し牛肉とオレンジをめぐる日米農産物交渉解決に取り組んだ。翌昭和60年(1985年)12月牛肉オレンジ交渉の実績が認められて、第二次中曽根第二次改造内閣で農林水産大臣として初入閣する。ちなみにこの時自治大臣として小沢一郎も初入閣している。農水相としては「タブーへの挑戦」を掲げ、日米間で対立が大きくなってきたコメの自由化問題に対応する。羽田は、外国米に対して価格の高い日本米に国際競争力をつけるため、農産物価格の引き下げを断行しようとした。しかし、昭和61年(1986年)の衆参同日選挙後、成立した第三次中曽根内閣で農水相は羽田から安倍派の加藤六月に交代し、農協の反対にもあい、米価は据え置かれることとなった。しかし、農水相を降りた羽田は、翌昭和62年(1987年)生産米に関しては、生産者価格を引き下げるという政府・自民党合意を取り付け、米価の引き下げを断行するに至る。
[編集] 田中派から竹下派へ
羽田は田中派の中堅議員として、次第に実力を蓄えていくが、一方で派内の世代交代を意識するようになっていった。昭和60年(1985年)2月竹下登、金丸信の側に組して、創政会に参加する。田中は2月27日脳梗塞で倒れるが、最後に政治家として公の場で発言したのは、羽田のパーティーにおいてであった。竹下派結成に際しては、竹下派七奉行の一人に数えられ、金丸信から「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と称される。昭和62年(1987年)11月中曽根康弘首相に指名される形で念願の竹下内閣が成立する。昭和63年(1988年)12月27日竹下改造内閣で農水相として再入閣する。しかし、竹下内閣はリクルート事件、消費税導入による世論の逆風を受け、平成元年(1989年)退陣する。
[編集] 政治改革
海部俊樹内閣が成立すると、羽田は自民党幹事長となった小沢一郎に、党選挙制度調査会長就任を求められ、これを受けた。自民党内に設置された政治改革推進本部の本部長となった伊東正義、本部長代理の後藤田正晴とともに政治改革推進派の中核となる。羽田は、政治と金の問題と、国際政治に日本が対応するために政治改革を必要と考え、選挙制度改革を中心にした政治改革を主張し、金丸信から「熱病にうかされている」とまで言われる。また、党内議論の中で石破茂などの改革派若手とひざ詰めで議論し、若手の信頼を得た。羽田は、小選挙区比例代表並立制の導入を主張するが、加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎(いわゆる「YKK」)らは、竹下派支配に反対し海部内閣倒閣を目論み、選挙制度改革を中心とする政治改革に反対して、平成3年(1991年)9月に政治改革関連法案は、廃案となった。政治改革が頓挫する中で若手議員は敗北感を覚えるが、羽田は、そんな中にあって若手を叱咤し、政治改革は伏流として残ることになる。
[編集] 自民党離党、細川連立内閣
平成3年11月成立した宮沢喜一内閣で大蔵大臣として入閣する。平成4年(1992年)竹下派分裂に際しては、派閥会長ポストをめぐり、会長代行の小沢一郎と竹下の最側近である小渕恵三の間で派を二分する争いが起こる。羽田は、竹下から自重を求められるが、小沢の側に立ち、人の悪口を言わないことで知られる竹下をして「孜がこんなに無定見とは知らなかった」と言わせしめる。羽田は、小沢、奥田敬和、渡部恒三らとともに改革フォーラム21(羽田派)を結成し代表に就任する。党内第5派閥に転落した羽田派は内閣改造で冷遇され、政治改革実現を旗頭に、集団離党するのではとの観測が流れる。こうした中、平成5年(1993年)4月病気辞任した渡辺美智雄の後任として、外相就任を宮沢に打診される。これは羽田を閣内に封じ込めるために後藤田正晴副総理が考えた”天元の一石”であった。しかし、羽田は、野にあって自由な行動を取ることを選択、外相就任を断った。
同年6月宮沢内閣は政治改革関連法案成立を断念したため、羽田派は、野党の提出した宮沢内閣不信任案に賛成投票をした。
6月23日自民党を離党し、新生党を結成。党首となる。代表幹事となった小沢による二重権力支配という批判に対しては、自分が表紙で小沢が黒子と反論ともつかぬ主張をした。ともあれ、羽田は新生党党首として全国を遊説し、新党ブームに乗って新生党は55議席を獲得する。これに先立つ、6月24日に既に、新生党、社会党、公明党、民社党、社会民主連合の5党首が非自民・非共産連立政権を目指すことに合意し、羽田は連立政権の首班候補として最有力視されていたが、日本新党代表の細川護煕を連立政権首班とすることに合意する。羽田は細川内閣の副総理兼外相となる。
[編集] 改新騒動
細川政権は政治改革、コメの部分的自由化を実現し、羽田及び新生党は連立与党の中核として連立を支えたが、細川首相の辞任に伴い、後継首相となる。しかし、首班指名に先立ち平成6年(1994年)4月25日新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招く。4月26日社会党は連立政権を離脱する旨を発表する。羽田は懸命になって社会党の連立政権復帰を努力したが時既に遅く、4月28日羽田内閣は少数与党内閣として成立した。元来、小沢一郎は、羽田が細川の後継首相となることには平成6年度予算成立後の政局を見据え反対ないし消極的であり、渡辺美智雄との提携を企図していたこともあって、羽田と小沢の関係にひびが入り始める。
[編集] 羽田内閣
羽田は「改革と協調」を掲げ、平成6年度予算の成立に全力を挙げた。永野茂門法相の南京大虐殺に関する発言をめぐる紛糾で出鼻を挫かれるが、公共料金値上げの年内凍結や、首相官邸直通のFAX設置などを打ち出していった。しかし、予算案は成立したが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党は内閣不信任案を衆議院に提出した。内閣不信任案の成立が不可避と判断した羽田は、解散総選挙に打って出る構えも見せたが、政治空白と従来の中選挙区制による総選挙実施を招くということで、結局、6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。
[編集] 新進党、太陽党を経て、民主党へ
6月30日村山自社さ連立内閣が発足し、野党に転落する。小沢の主導によって、旧連立の新生党、民社党、日本新党などは相次いで解党し、12月新進党を結成する。羽田は党首選挙に立候補するが、小沢の支持を得た海部俊樹に敗れ、副党首となる。 平成7年(1995年)12月党首選挙に立候補し、小沢と激突する。羽田支持グループは、党内非主流派ともいうべき興志会を結成し、小沢執行部と対立を深めていく。平成8年(1996年)新進党が衆議院議員総選挙に敗北すると、執行部に対する不満を強め、12月新進党を離党し、太陽党を結成し、党首となる。
平成9年(1997年)12月新進党が解党すると、翌平成10年(1998年)保守系諸派を糾合し、民政党を結成し、代表となる。民政党は民主党(第一期)、新党友愛、民主改革連合による統一院内会派「民友連」へ参加する。さらに4月、民友連参加政党の合流による新たな民主党(第二期)を結成し、幹事長となる。その後、特別代表、最高顧問を歴任する。
平成16年(2004年)5月、国民年金への加入が義務付けられた86年4月から首相在任期間を含む95年7月まで9年間余り未加入であったことを自ら発表し、党最高顧問を辞したがその後再び最高顧問に就任。現在に至る。
[編集] 人物
- 田中真紀子に「多弁にして空疎」といわれて馬鹿にされた
- 話は長いが、内容がない。語尾に必ずといっていいほど「~というふうに」というフレーズを使用する(羽田語と揶揄された)。ほかに、「真正面から」「率直にいって」などのフレーズも多用。
- 特徴的な半袖ジャケットで知られる省エネスーツの愛好者。省エネルックの普及に大きく貢献した。
- ソフトな人柄。
- アクの強い人物の多かった竹下派七奉行の中では、橋本龍太郎・小渕恵三とともに目立たないタイプで、H2O(無味無臭)と呼ばれたこともあった
- 参議院議員の羽田雄一郎は長男。
- 羽田は小選挙区制導入後は長野県第3区選出代議士だが、自身は東京都第6区有権者である。歴代の東京6区選出代議士は岩国哲人~石井紘基~小宮山洋子~自民党の越智隆雄。岩国は羽田側近、石井・小宮山は成城学園高校の後輩で親密。石井が殺害された後の補選で、当時参院にいた小宮山を担ぎ出し選対本部長をつとめたのは羽田である。
- 愛称は「孜チャン」「ハタッチ」
- 1994年11月8日、笑っていいとも!のテレフォンショッキングに小池百合子からの紹介で出演したことがある。ちなみに翌日ゲストに指名したのは山口敏夫。
[編集] 関連項目
内閣総理大臣 | ||
第79代 細川護熙 |
第80代 1994 |
第81代 村山富市 |
- 新生党党首
- 初代: 1993 - 1994
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- 先代:
- 結成
- 次代:
- 解散
- 太陽党党首
- 初代: 1996 - 1998
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- 先代:
- 結成
- 次代:
- 解散
- 民政党代表
- 初代: 1998
-
- 先代:
- 結成
- 次代:
- 解散