創政会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創政会(そうせいかい)は、会長を竹下登に据えて結成された田中派内の勉強会であり派中派。創政会の名は竹下が発行していた機関紙から取られた。
[編集] 概説
派生は1984年に起こった二階堂擁立劇後の年末とされているが、萌芽は田中派のオーナーである田中角栄のロッキード事件による逮捕の後に世代交代論者の金丸信が竹下を支えて派閥をまとめようとしたことに起因している。
1984年当時の田中派は121名を抱える党内最大派閥であったが田中退陣の後10年を経ても自派閥から首相候補を出さない閉塞的な状況に陥っていた。それは田中が自派閥から総裁候補を送り出すことによって自らの影響力低下を恐れたためであったがいつまでも後継者を決めない態度に竹下を担ぎ上げようとする若手を中心に不満がたまっていた。その状況の中で二階堂擁立劇が起こり失敗すると若手の間で焦りが生まれ急速に進行し始めた。勧誘は徹底的に秘密裏に進められ、結成直前の参加希望者は81名を数え当時の田中派の3分の2にもなろうかという勢いだったが、勉強会は見かけで実は派中派であることに気づいた角栄の猛烈な切り崩しにあい参加希望者はどんどん脱落し結局40名にまで半減した。しかし40名という数は当時の総裁立候補に必要な50人に後10名足りないだけの数であり角栄も無視できない存在になった(角栄秘書の早坂茂三は双方痛み分けの芸術的な数字と語っている)。結成後、田中邸を訪れた竹下に角栄は同心円で行こうと伝え竹下も了承。双方が収束の落としどころを探っていた矢先に角栄は脳梗塞で倒れてしまう。角栄が倒れたことによって世代交代の流れが出来たこともあり総選挙前の1986年4月25日、54人を数えたところで創政会は解散した。その後、田中派は竹下を推す勢力と派閥会長の二階堂進の勢力との対立を経て、経世会(竹下派)へと変化して行くことになる。
この一連の動きで角栄が最も心を痛めたのは小沢一郎、梶山静六、羽田孜など子飼の弟子が弓を弾いたことであった。この事で角栄は深酒になりやがて脳梗塞で倒れることになるのだが、田中派外様の代表格である田村元は創政会卒中と周囲に漏らした。
一般的には田中支配転覆のクーデターに見られがちな創政会の結成であるが小沢一郎はオヤジと慕う田中に弓を弾く気はなく竹下を一時的に後継者に指名すればそれでよかったとも述べている(立ち上げの前日一晩泣き明かしたという)。梶山静六は派内後継者を決めればそれでよく田中支配を続けることに反対ではなかったという。羽田孜なども同様のことを言っている。
また後藤田正晴は角栄が倒れることがなければいずれ必ず機会を見てつぶされていただろうと語っている。