紳士協定 (映画)
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紳士協定 Gentleman's Agreement |
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監督 | エリア・カザン |
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製作 | ダリル・F・ザナック |
脚本 | モス・ハート |
出演者 | グレゴリー・ペック ドロシー・マクガイア ジョン・ガーフィールド セレステ・ホルム |
音楽 | アルフレッド・ニューマン |
撮影 | アーサー・C・ミラー |
編集 | ハーモン・ジョーンズ |
配給 | 20世紀フォックス |
公開 | 1947年11月11日 ニューヨーク |
上映時間 | 118分 |
製作国 | アメリカ合衆国 |
言語 | 英語 |
制作費 | 200万ドル(当時) |
興行収入 | 390万ドル (当時) |
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紳士協定(Gentleman's Agreement、しんしきょうてい)は1947年のアメリカ合衆国の映画作品。
第20回(1947年)アカデミー作品賞、監督賞(イーリア・カザン)、助演女優賞(セレスティ・ホーム)を受賞した作品である。
多民族国家によって構成されたアメリカ社会での民族間の反目や排他感情のなかで、白人の黒人に対する差別や、アンチ・セミティズム(ユダヤ人排斥感情)は当時根深いものがあり、特にホロコースト後、ユダヤ人排斥の事実や運動を映画に取り上げることは長いことタブーとされたが、『紳士協定』はその問題をテーマにしたはじめての作品である。20世紀フォックスのプレステージ作品として構想されたこの作品は、ローラ・Z・ボブスンのベストセラー小説に基づき高名な劇作家モス・ハートが脚色、社会派の監督イーリア・カザンが監督したこの作品が、この年のオスカー受賞作品に選ばれ、カザンは監督賞も受賞した。
ハリウッドの映画人にはユダヤ人が多く、この映画でも、ハート、カザン、ジョン・ガーフィールドもユダヤ人であり、ハリウッドの映画人としては画期的な勇気ある社会劇として評価された。グレゴリー・ペック扮する主人公がユダヤ人をよそおって、ユダヤ人排斥運動の実態を暴いていくサスペスフルなドラマで、ドロシー・マクガイア、ジョン・ガーフィールド、セレスティ・ホーム、アン・リヴィアといった第1線級の共演者、助演者でかためられている。ペックは主演男優賞にノミネートされたがオスカーを逸し、セレスティ・ホームが助演女優賞に選ばれている。
日本公開はずっと遅れて1987年10月である。
この提起されたテーマは古いようでまったく新しく、どの国にも当てはまる「差別」という問題のアプローチの方法の一つであると共に、本質的な問題は日本にもまだ当然のように存在することで考えさせられる映画である。
[編集] ストーリー
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
妻に先立たれて、幼い息子と老いた母親と暮らす人気ライター、フィル・グリーン(グレゴリー・ペック)。彼は週刊誌編集長の招きでカリフォルニアからニューヨークに引っ越した。反ユダヤ主義に関する記事を依頼された彼はユダヤ人になりすまして、その実態を探ろうとする。だが、彼がグリーンバーグと名乗ったとたんに、周囲の人々の反応は豹変した。一家が住むアパート、母のかかりつけの医者、息子の学校、高級ホテル……。暗黙の「紳士協定」は至る所に存在していた。
フィルは編集長の姪キャシー(ドロシー・マクガイア)と愛し合い結婚を誓うが、ユダヤ人問題に対する考え方の違いから、二人の間には大きな溝ができてしまう。ある日、フィルが会社幹部との昼食の席で、自分はユダヤ人だと告白。噂はあっという間に広まり、差別はいっそう激しくなった。またフィルとキャシーのハネムーン先に予定していた高級ホテルもユダヤ人であることを理由にキャンセルされてしまう。
フィルの幼なじみのユダヤ人デイヴィット(ジョン・ガーフィールド)は「差別や偏見を目前にして沈黙するのは、それを助長することでしかない。」と言う。キャシーは自分の考えが誤っていたことに気づく。やがてフィルの記事が発表される日が近づいてきた……
[編集] エピソード
- ジョン・ガーフィールドは、ダリル・F・ザナックがモス・ハートの脚本を忠実に映画化することを約束したので、役柄を引き受けた。彼の出演時間は短いが、主演クラスの給料を支払った。
- 他の映画会社の社長クラスの者も大部分がユダヤ人だったため、この映画化が製作されるのを聞いて、製作者に作らないでほしいと言ってきた。彼らは反ユダヤ主義が再び大騒ぎになることを恐れて、この問題が沈静化するのを好んだ。しかし、この映画の製作は進み、撮影中の対立を忠実に再現した。
- 1948年度のフォックスの興業収入1番の作品である。
- この映画は当時良く知られた人種差別主義者で反ユダヤ主義の3名の実在の人物を参考にしている。ミシシッピ州の上院議員セオドア・ビルボはアフリカ系アメリカ人はすべてアフリカに帰るように主張した。コラムニストのウォルター・ウィンチェルを「小さなユダ公」と呼んだミシシッピ州の下院議員ジョン・ラスキンは米国下院で活動していた。クリスチャン国家主義十字軍のリーダー、ジェラルド・L・K・スミスはオクラホマ州タルサでの上映を拒否するよう訴えたが却下され、続けてフォックスに対して100万ドルの賠償を訴えたが、これも1951年敗訴している。
- プロデューサーのダリル・F・ザナックは3人の反ユダヤ主義の人物に対する法律的なアドバイスを事前に受けていた。名誉毀損は小さな危険だったにもかかわらず、ザナック(彼はユダヤ人ではない)はこう答えた。「彼らは我々を名誉毀損で訴えよ。彼らが訴えることはないだろうが、もしも訴えるなら参考人や容疑者として法廷に出ても個人的にはこれ以上の幸せはないだろう。」実際にはビルボ上院議員は公開前に死去し、ラスキン下院議員はビルボ議員の後ろ盾を無くし、ジェラルド・L・K・スミスは、法廷で完膚無く打ち砕かれた。
- ローラ・Z・ボブスンはジョン・ラスキン下院議員の反ユダヤ主義のコメントが議会内で大いに賞賛された後に、小説を書いた。コスモポリタン誌に1946年11月から1947年2月まで連載され、大反響をよんだ。これはダリル・F・ザナック(彼は映画会社の社長の中で珍しくユダヤ人では無かった)がすぐに映画権を獲得した。
- 撮影は1947年5月から始まり3ヶ月かけて完成した。作品は11月に公開されたが、圧倒的な批評家の支持を得た。
- ジョン・ガーフィールド(本名ジュリアス・ガーフィンクルでユダヤ人)はデイブ役として助演したのが幸福だった。彼は映画の主題が日頃聞きたかったことであることを感じていたからである。
1941: わが谷は緑なりき | 1942: ミニヴァー夫人 | 1943: カサブランカ | 1944: 我が道を往く | 1945: 失われた週末 | |
カテゴリ: アメリカ合衆国の映画作品 | 1947年の映画 | アカデミー賞作品賞受賞作 | 反ユダヤ主義