地上より永遠に
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地上より永遠に From Here to Eternity |
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監督 | フレッド・ジンネマン |
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製作 | バディー・アドラー |
脚本 | ダニエル・タラダッシュ |
出演者 | バート・ランカスター モンゴメリー・クリフト デボラ・カー フランク・シナトラ ドナ・リード |
音楽 | ジョージ・ダニング モリス・W・ストロフ |
撮影 | バーネット・ガフィ |
編集 | ウィリアム・リオン |
配給 | コロンビア映画 |
公開 | 1953年8月5日 ニューヨーク |
上映時間 | 118分 |
製作国 | アメリカ合衆国 |
言語 | 英語 |
制作費 | 165万ドル(当時) |
興行収入 | 1220万ドル(米国内) |
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『地上より永遠に』(ここよりとわに、From Here to Eternity)は、1953年の米国映画。
第26回(1953年)米国アカデミー賞最優秀作品賞、監督賞(フレッド・ジンネマン)、助演男優賞(フランク・シナトラ)、助演女優賞(ドナ・リード)、脚本賞(脚色部門:ダニエル・タラダッシュ)、撮影賞(バーネット・ガフィ)、録音賞(コロンビア映画サウンド部門)、編集賞(ウィリアム・ライアン)の8部門を獲得した。また当作品は、1994年米国連邦議会図書館においてアメリカ国立フィルム登記簿に登記された作品である。
原作は、『大突撃』(1964)、『シン・レッド・ライン』(1998、以上2本は同一原作)を書いたジェームズ・ジョーンズの小説を軍隊内の生活という特殊な環境をうまく活かしつつ、多様なドラマを骨組みのしっかりとした一本の映画にまとめた脚本と演出の手腕の手堅さを高く評価された。
軍隊内の過酷な生活は『フルメタル・ジャケット』(1987)、日本でも『人間の條件』(1959ー1961)に詳しいが、この作品では(1)実際の米軍に撮影協力を求めたためと、(2)米国映画界全体が赤狩りのため萎縮していた状況の中で、これらの作品に比べてその点では本作品はやや弱いが、それでもこれだけの内容を描いた当時の勇気には今更ながら感心する。
[編集] ストーリー
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
1941年夏のハワイ、ホノルルのスコフィールド米軍基地。この兵営G中隊にラッパ手のプルー(モンゴメリー・クリフト)が、転属してきた。ボクシング狂で自分のチームの強化を図る中隊長(フィリップ・オーバー)が、かつてボクサーだったプルーに声をかける。妥協を知らないプルーはかつて試合中に親友を失明させたこともあって、中隊長の誘いを断る。人柄も良く機転もきく曹長ウォーデン(バート・ランカスター)はプルーを説得しようとするが、効果はなかった。彼は、孤立無援となり、分隊長(ジョン・デニス)らにひどいシゴキを受け始める。
味方は兵士のアンジェロ(フランク・シナトラ)ただ一人。だが彼も営倉係長ジェームズ(アーネスト・ボーグナイン)に難癖つけられ、鉄格子のなかに放り込まれてしまう。中隊長は無能で何も出来ず、彼に愛想をつかした夫人カレン(デボラ・カー)は男たちと浮名を流し、現在は要領のいいウォーデンと浮気をしている。一方、プルーは元ウェイトレスのロリーン(ドナ・リード)と恋におちる。しかし。アンジェロがジェームズに痛めつけられ殺されたのを見たプルーはナイフで決闘しジェームズを殺し、ロリーンの家に隠れる。
そして12月8日の朝、日本軍の奇襲が始まった。混乱の中でプルーは仲間の兵士に背後から銃撃されてあっけなく命を落とす。「彼こそ立派な人間だった」というウォーデンの言葉が虚しく響いた。
[編集] エピソード
- コロンビア映画の社長ハリー・コーンは、最初カレン役にジョーン・クロフォードを推したのだが衣装が気に入らず役を降りた。監督のフレッド・ジンネマンは別の配役を考えた。
- プリューが営倉から逃げた後アンジェロとロリーンにばったり出くわすシーンは実際にアンジェロ役のフランク・シナトラのスクリーン・テストの映像である。フランク・シナトラはアドリブも交えて演じている。この映像はそのまま映画に使用された。
- モンゴメリー・クリフトはボクシングのシーンのためプロのトレーナーも付きっきりで指導したにもかかわらず、うまく演じることができなかった。拳闘のシーンはクローズアップと他のショットを編集で巧みにごまかしている。しかし、よく見ると、ボディ・ダブルが演じているのがわかる。
- バート・ランカスターとモンゴメリー・クリフトが座って一杯飲んでいるシーンで、クリフトは酒を実際に飲んでいるがランカスターは飲んでいない。
- 小説は長らく映画化不可能と考えられた。米国陸軍に関して影の部分が描写されていて、陸軍にとって冒涜となっているからである。(映画化するためには人員も装備も兵站面も陸軍からの協力はできないだろう、と考えられていた。)陸軍の協力を得るためと検閲を通るため、決定的な小説で描かれた細部を変更した。原作の売春宿は映画ではホステスがいるナイト・クラブに変更されたし、不道徳な面はかなり削られた。暴力シーンは抑え気味に演じられ、小説に書かれている陸軍での中隊長の昇進は映画では触れていない。
- ジョーン・フォンテインは、カレン役に抜擢されたが家庭の問題で断った。彼女自身はそのことに後悔し、彼女の後半生の実績に対する失敗であると彼女は非難された。
- 現在、有名なシーンとなっているバート・ランカスターとデボラ・カーとの海辺のシーンは脚本になかった場面である。波が彼らに飛び散るアイディアは、監督が最後に閃いたのである。
- コロンビア映画の社長であるハリー・コーンは、デボラ・カーが「セクシー」でないために主役を演じられないと確信して、もう少しで彼女をキャストからはずす所だった。他にもいろいろな候補を社長自身が考えていた。
- 映画が公開されて原作もベストセラーになった。ある俳優は、もし本が映画化したら役が得られると友人に言い回ったそうだ。その俳優とはアーネスト・ボーグナインである。
- 撮影は41日間で100万ドルの経費で済んだ。
- フランク・シナトラは、当時スランプに陥っていたので、役をもらうために強く要望をしければなかった。
- 原題名は、キプリングの1892年の詩"Gentleman-Rankers"の一部から取られた。
- シェリー・ウィンターズは、出産直後でアルマの役を降りなければならなかった。
- ロナルド・レーガンとウォルター・マッソーのどちらかがウォーデン曹長を演じると思われた。
- 都市伝説で、フランク・シナトラがマフィアの力でこの役を奪ったと言われているがこれは嘘である。これは、もちろんマリオ・プーゾ著『ゴッドファーザー』で小説化され、映画で映像化されただけである。本当の理由は彼の当時の妻エヴァ・ガードナーがコロンビア映画社長のハリー・コーンに彼の配役を頼んだからである。初めのうちは気が進まなかったが、コーンはいいアイディアを思いついた。当時シナトラの評価は非常に低かったので、彼はとても安い給料で雇えたのである。シナトラは一所懸命働きかけたにも関わらず役は無いと思われていたが、結局8000ドルのギャラで雇ったのである。
- 原作を書いた小説家ジェームズ・ジョーンズは映画化されておもしろくなかったらしい。映画があまりにもきれいごとで「消毒」されていたから。
- ジェームズ・ジョーンズ自身も小説を映画化できるようにしていた多くの脚本家のうちの一人である。
- ハリー・コーンは、モンゴメリー・クリフトのプルーへの配役を強く拒んだ。「彼は戦士ではないしボクサーでもない。たぶんホモだろうから」と。
- 米国陸軍もこの映画の参加協力を最初のうちは嫌がった。ただプロデューサーのバディ・アドラーが第二次世界大戦時に通信部隊の大佐であったために、彼の影響力が行使できたのである。
- フレッド・ジンネマン監督も、初めはこの映画に乗り気ではなかった。コロンビア映画のの社長ハリー・コーンを不審に思っていたからである。もう一つジンネマンは、当時赤狩りの絶頂期であったために、キャストが陸軍、海軍、FBIからもいらぬ嫌疑をかけられることを心配していた。
- フレッド・ジンネマン監督は白黒映画に非常にこだわった。曰く「色が付けば平凡な作品になるだろう。」と。また、彼は当時流行したワイドスクリーンの画面サイズも嫌がった。
- バート・ランカスターは映画を撮るにあたり、神経質になっていた。彼の以前の出演作の大部分は、比較的軽量なプロダクションで撮影していたからである。彼は特にモンゴメリー・クリフトの手慣れている演技力の強烈さを恐れもしていた。
- モンゴメリー・クリフト、フランク・シナトラ、そして原作者のジェームズ・ジョーンズは撮影中も飲み会を催していた。その時酔っぱらったクリフトは、シナトラに酔ったアンジェロの演じ方を教えた。シナトラは終生その事については感謝していた。
- 脚本によれば、バート・ランカスターとデボラ・カーでの浜辺のシーンは、立って行うことになっていた。これは、ランカスターの助言のより浜辺に寝そべって撮るようになった。撮影から数年後この場所は観光地化した。
- MPAA(米国映画業協会)はバート・ランカスターとデボラ・カーとの間の熱烈なキスシーンの写真を公開するのを禁止した。多くの映画ではそのシーンが短くなった。なぜなら映写技師がおみやげとしてその部分だけ切って持ち帰ったためである。
- 8個のオスカーは、『風と共に去りぬ』(1939、9個)以来の最も受賞数の多い映画となった。
- この作品はアロハシャツが普及するのを助けた。
- 検閲はデボラ・カーの水着でスカート部分が挑発的でないよう要求した。
1941: わが谷は緑なりき | 1942: ミニヴァー夫人 | 1943: カサブランカ | 1944: 我が道を往く | 1945: 失われた週末 | |