ジョン・ラスキン
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ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819年2月8日 - 1900年1月20日)は19世紀イギリスの評論家・美術評論家である。
ターナーやラファエル前派と交友を持ち、『近代画家論』を著した。また、中世のゴシック美術を賛美する『建築の七燈』『ヴェニスの石』などを執筆。
富裕な葡萄酒商人の子としてロンドンに生まれ育った。オックスフォード大学のクライストチャーチ校で教育を受け、詩作も行って詩の賞を受賞している。ターナーとの交流からその芸術を擁護するエッセイを執筆、批評活動へ入る。1848年にエフィー・グレイen:Effie Gray(1828 - 1897)と結婚。しかし、実際の夫婦生活が無く、1854年には離婚に至った。夫婦生活の破綻の一因はラスキンの幼女趣味(後年も問題になる)にあったと考えられている。夫人は後、ジョン・エヴァレット・ミレーの夫人となり、複数の絵画のモデルになっている。
最初はロンドンの労働者専門学校で教鞭をとったが、オックスフォード大学の教授職(1869-79)に転ずる。オックスフォードではルイス・キャロルと親しくなり、キャロルによって写真を撮られている。オックスフォードのラスキン・カレッジは彼の名にちなんでいる。父の死後財産の相続を受けたが、社会主義者としての信条からその多くを投げ打って複数の慈善事業を行った。
1878年、ホイッスラーの批評が原因で法廷闘争に巻き込まれる。ラスキンは敗北したが、賠償金はわずか1ファージングだった。ただし、この敗北はラスキンの名声を低下させ、もしかするとその精神活動の低下をうながしたかもしれない。晩年は湖水地方の湖岸に居宅を構え、文化財保護運動、ナショナル・トラストの創設などに関わった。ラスキンはヴィクトリア朝からエドワード朝にかけて、社会に美術批評の枠を超えた大きな影響を与えている。トルストイはラスキンを「自身の心で考える稀有の人物の一人」と評している。
ラスキンの美術に関する考えは、一言で言えば「自然をありのままに再現すべきだ」ということであった。この思想の根幹には、神の創造物である自然に完全さを見出すという信仰があった。 この思想はラファエル前派やウィリアム・モリスらに大きな影響を与えた。
- 真珠王御木本幸吉の一人息子隆三(1893-1937年)は、旧制一高時代にラスキンの著作に出会い、オックスフォード大学留学でラスキンの研究に情熱を注ぎ、銀座に「ラスキン文庫」を開設した。
- プルーストはラスキンに傾倒しており、著作のフランス語訳まで行っている。文体でも影響を受けた。
- ガンジーもラスキンの著作に影響を受けたという。
- ジャマイカ事件ではエア擁護委員会に加わっていた。